学生時代、中嶋嶺雄ゼミに属していた。先輩たちがつくったゼミの会雑誌「歴史と未来」が続いていて、3カ月の東南アジアの旅の感想文を掲載した。

 http://www.nakajimaworks.com/rekishitomirai/003.htm 

 ラトウ・キドゥル―南海の女神の国

 中央ジャワの人々はいまでもヒンズー・ジャワ黄金時代の優雅な生活様式を続けている。プロプドールやプランパナンの遺跡がその高尚な哲学を不滅なものにしているように。
 ジャワ島の南岸におしよせるインド洋の荒波は激しい。時として荒れ狂う海に人々はなすすべを知らなかった。つまりここは古えより南海の女神ラトウ・キドウルの支配するところであった。ラトウ・キドゥルは十六世紀のマタラム王朝のバネムパハン・セノバティ王の妻であったという。伝説によれば、歴代の王は海が荒れるたびに多くの貢物をささげて、女神の怒りを鎮め、ラトウ・キドゥルを神としてあがめることによって日々の安泰を保っていたという。しかし、セノパティ王はとの南海の女神を妻に迎えることによって女神のもつ神権を授かろうとしたのだった。以来マタラム朝の王とその子孫たちはラトウ・キドゥルと夫婦の契りを結ぶことがたてまえとなり、毎年ラバハン祭を催し、女神のために貢物をささげている。そして、その習慣は現在のジョグャのスルタンにまでいたっている。ジャワ島の高級ホテルの最高の部屋はいつもこの南海の女神ラトウ・キドゥルのためにあけてあるという。
 このようにジャワにはジャワ独自の神々の世界がある。ジャワの文化というのは、この自らの神々の世界の上にヒンズー・仏教文化が移入され、またその上にイスラム文化が導入され、結果としてとの三つの文化が鼎立しているのである。あるいは混合しているといった方がよいのかもしれない。

 高原の避暑地・バンドンヘ

 シンガポールを飛びたつ時には、そのようなジャワの歴史などは何も知らなかった。ただ多くの人々から口伝えに聞いた「かっぱらいと人殺し」のイメージだけを胸にいだいていた 。ジャカルタに着いてからも、パスポートと現金だけを握りしめる日々が続いた 。ジャカルタで得た情報も決して明るいものではなかったからである。汽車はだめ、バスはもっと危い、乗合いタクシーにおいては何をか況んやである 。
 しかし、4日目、私は車中の人となってバンドンに向かっていた。インドネシアの農村は実に豊かである。どとまでも続く田園風景そしてよく実った稲穂。炎天下、人々はよく働く。インドネシアは貧しいという。実際、貧しい。しかし、その貧しさはどこからくるのかさっぱりわからない。貧しいのは都市だけなのだろうか。それならばなぜその貧しい都市に人々は流れてゆくのだろうか。
 バンドンはオランダ統治時代避暑地として栄えた。今では大学の町としても有名である。涼しさのせいだけだろうか、どことなくしっとりとして落ち着きがある。しかしなんといってもバンドンの町を世界的に有名にしたのは1955年のアジア・アフリカ会議である。町に中心を通るジャラン・アジア・アフリカ(アジア・アフリカ通り)には当時の会場であった白い建物があるが、掲げる旗もなく立ち並ぶポールが当時のなごりを残している。スカルノ、ナセル、ネルー、周恩来といったかつてのAA諸国のリーダーたちが、あたかも「アジア・アフリカの時代来たれり」と協力を誓いあったのは今からちょうど20年前のこと。それが二度と開かれずに分裂しようと当時のだれが思ったことであろうか。しかし、考えてみれば、アジア・アフリカ会議がこの灼熱の国インドネシアのジャカルタではなく、このような高原の美しい町で開催されたこと自体に大きな矛盾がふくまれていたような気がしてならない。

 古都ジョクジャへ(1)

 こちらで昼間に旅行する人は貧乏人と相場が決まっているらしい。昼はしる汽車のほとんどが三等車だからである。私がバンドンから乗ったもの三等車である。長距離列車とはいえ、やはり各駅停車なので乗客はたえず入れかわる。乗客の大多数はインドネシア人で中国人はまれである。外国人らしき者は私一人であった。
 インドネシアは農村ものんびりしていれば汽車ものんびりしたもので発着時間などは無いに等しい。後にジョグジャでジャカルタ行きの夜行列車のキップを買いにいった時、ジャカルタ着は午前4時だというので早すぎるといったら、心配しなくても必ず明るくなってから着くといってくれた。案の定ジャカルタには8時に着いた。
 さて、汽車が駅につくと、まず乗客の乗り降りがあって、次に物売りがやってくる。そこまでは万国同じだろうと思うが、続いて靴磨きや乞食も乗ってくるのである。汽車が動き出しても彼らは平気なもので、商売が終わらなければ次の駅までゆくまでのことである。車掌もべつに運賃を請求するわけでもないし、乗客にしてもあわてて買い物をする必要もないからそれだけ旅が楽しくなるというものであろう。もっとも停車時間というもの非常に長いのだが。
 途中タクシマラヤという駅から3人の同行者と巡り会った。1人は中国人で洪さんといい、あとの2人はハルノヨト君とハルマジ君というインドネシア人である。インドネシア人の2人は英語が少し話せたが、洪さんはまるでだめで、突如として、英語、インドネシア語、中国語での国際会議が始まった。そこで即座に私はリッチマンということになった。彼らが2年かかっても稼ぐことができないお金を、私は2ケ月の間にたった一人で浪費してしまおうというのだから。そのリッチマンに彼らは物売りがくるたびに何やら買ってくれるのである。わらのついたアイスキャンデーでも何でも、私はおいしくいただいた。乞食がきてリッチマンが5ルピアやると彼らは25ルピアもあげるのである。しまいには、どちらの心がリッチだかわからなくなって困惑してしまった。ハルノヨト君は途中で降りたが、ぜひ一晩うちで泊まってくれといってくれた。洪さんはソロの人であったが、私がソロにもゆくと聞いて、私は「不是有銭的(お金持ちではない)」さが、夕食をごちそうしたいからソロに来たらぜひ寄ってくれと住所まで書いてくれた。全く「処処有親人(いたるところに親切な人あり)」でやっぱりきてよかったとその時思った。

 古都ジョグジャ(2)

 バンドンを朝8時にたって、昼もすぎると列車はムシ風呂のようになってきて、座席のまわりも乗客の食べかすでゴミ箱と化す。時として子供の手洗いとなることもある。このことを帰国してから親に話すと、終戦直後の日本の汽車もそうであったというのを聞いて安心した。
 インドネシアはまた火山の国でもある。田んぼによって田植えの時期がちがうので、青々とした田もあり、刈り入れ前の田ありでおもしろい。その方が作業面で能率的なのかもしれない。米のほかに砂糖キビ、ヤシ、ゴム、茶などを栽培している。
 インドネシアの地図を広げてみると、その国土がいかに広いかがわかる。西はスマトラからジャワ、カリマンタン、セレベス、西イリアンと島嶼が続く。しかし、ジャワ島以外の島はほとんど開発が進んでいないという。カリマンタンにはあらゆる鉱産資源が無尽蔵にあるといわれているが、深いジャングルがその調査さえ拒んでいる状態にある。ふと、そのようなことを考えながら、ヤシのジャングルに沈む夕日をながめていた。すると、ハルノヨト君のかわりに私の前に座っていた英語の先生が、「あんた、日本からきたんだってね」と話しかけてきて、将来のインドネシアは有望なのだが、そのためにはぜひとも日本の協力が必要なのだ、といかにもインテリらしい問題を出してきた。
 ジョグジャ着は午後5時の予定であったがまだまだ着きそうにない。暗くなっても列車内に電燈はつかない。ハルマジ君にいわせると「人民の乗る列車」だからだそうだ。ローソクを1本2ルピアで売りにくるが買う人はまれである。車内は急に鎮まり、真っ暗な田んぼを蛍が飛びかうのがみえる。列車は銀河号に早変わりして、こぼれんばかりの星空にむかって走る。8時、汽車はあこがれのジョグジャに着いた。(ばん・たけずみ、中国語科4年)