ニューヨーク貧民窟のユダヤ少年
 もうかれこれ9年前になる。私は、ニューヨークの貧民窟を研究するために、ユダヤ人街を黄昏時に訪問した。そして驚いたことには、10階に近い高層建築から、一度に人間がはみ出て来て、街上の混雑といへば、全く想像以上であった。その混雑の真最中、石炭箱をひっさげた12、3の少年が、社会主義の演説を遊び半分にしてゐるのであった。巡査がそれを追ひかける。子供等は面白がって、きゃっきゃっと逃げ廻る。その一人が、私を見て、あまり背の低いのに吃驚してゐるらしかった。いろいろからかはれたが、私は、黙って人混みの中に隠れた。
 アメリカでも、ユダヤ人は決して農に親しまない。彼等は、徹底した遺伝的商工業者である。彼等は群居を好み、彼等は密集する。そこに、文明社会に於ける秘密団体があるかの如く、ユダヤ人を理解しないものには想像される。
 しかし、ユダヤ人とて、別に鬼でもなければ、悪魔でもない、私が今日まで欧米で交際したユダヤ人は、大抵いい人ばかりであった。彼等は、アングロサクソン人とちがって、概して色が青白く、鼻が大きく、髪の毛は日本人の如く黒いものが多い(勿論例外はあるが)。しかし、混血してゐる者が多いので、素人にはユダヤ人とイタリア人の区別がなかなかつきにくい。
 ニューヨークには、ユダヤ人の世界人口の一割、即ち150万人くらゐ住んでゐるといはれてゐる。イーディッシュ語で-イーディッシュ語はドイツ系のユダヤ人の言葉である-新聞が発行されてゐる。イーディッシュ語の活動写真館もある。イーディッシュ語の劇もあれば、礼拝堂もある。勿論多くの商店の看板はイーディッシュ語で書かれてゐる。
 ニューヨークにユダヤ人が来たのは、16世紀にユダヤ人がブラジルに移民して後間もないことであった。ユダヤ人は、ニューヨークで、ニューヨーク大学といふ大きな大学をも持ってゐる。この大学は、日露戦争の時、日本を応援した大富豪のユダヤ人ジェイコブ・シフが、最近寄附金を提供したので、益々美しくなり大きくなった。その学校の徽章がヘブライ語で書いてあるから、私は変に思ったが、ニューヨークがユダヤ人の都市であることを思へば、すぐ理解出来た。

 世界戦争とユダヤ人
 日本人の一部の間には、世界戦争がユダヤ人の陰謀である如くにいひふらしてゐる者があるが、私は、ニューヨークのユダヤ人の生活を多少知ってゐる者として、全くそんな事を信ずることは出来ない。
 しかし、ユダヤ人と支那人ほど、世界によく散布した人種は少いであらう。それであるから、世界各国の連絡をとるには、ユダヤ人はよい場所にゐるといはなければならない。しかし、数からいへば、ユダヤ人は世界全体に1500万人とは無いであらうから、世界を征服する力はないであらう。
 いや、それどころではない。ユダヤ人のうちには、好戦的なものは比較的少くて、ユダヤ人が寄留してゐる国家が親切にすれば、決して戦争を起すやうな人種ではない。米国の如きは、最初からユダヤ人を尊敬してゐたので、よく国民として国家に奉仕してゐる。南北戦争のときなどでも、記録によると、合計7038人のユダヤ人が南北両軍に兵士として出陣したことが書いてある。そして1910年までに、4人の上院議員がユダヤ人の間から選出せられ、下院には30人が選出されてゐる。
 これは英国でもさうで、英国では幾人かの貴族がユダヤ人の間から出てゐる。そして内閣の閣僚にはユダヤ人がいつも顔を出してゐる。現内閣の外務大臣サイモン氏の如きは、ユダヤ人である。私は、彼と一緒にエルサレムで約10日間同じホテルに泊って、屡々交ったが、あれほど愛国的な人間は少からうと思ふ。

 ローマ旧教とユダヤ人
 しかし、ドイツとオーストリアには、昔からユダヤ人を非常に嫌ふ風習がある。これは、ローマ旧教の関係であらうと私は思ってゐる。一体新教国に於いては、ユダヤ人に対して寛容であり、旧教国に於いてはユダヤ人を非常に排斤する。
 オーストリアに於けるユダヤ人追放の記録は悲しい。1670年、ユダヤ人追放令が出た後、マリア・テレサは、口髯なきものは(その当時ユダヤ人に口髯を附けさせる法律があった)、ユダヤ人の証拠として、左腕に黄色の腕章をつけるやうにと命令を出してゐる。その頃からユダヤ人の悲哀は、言葉でいひ尽せないほどであった。家庭は離散し、父子は決して同じ処に住むことは出来なかった。幸ひ、ヨセフニ世の改革によって、ユダヤ人の解放が計画せられ、職業の保証、ユダヤ人圧迫の税制の改革、ユダヤ人のための大学の開放等が行はれた。
 ヒットラー内閣のユダヤ人圧迫は、少し狂気染みてゐるが、かうした出来事は、異常な事であって、最近のドイツは、必ずしもユダヤ人を極端に迫害はしてゐなかった。もちろん、ドイツあたりでは、数世紀に亙るユダヤ人への反感があって、ユダヤ教に対する差別待遇、ユダヤ人の風習に対する侮辱等が、ずゐぶん長い間習性になってゐる。
 古いことをいへば、マホメット教徒が、1453年にコンスタンチノープルを占領した頃から、ユダヤ人を非常に恐怖するやうになったことは、疑ふことが出来ない。それはマホメット教徒とユダヤ教徒が、ほとんど同じやうな信仰を持ってゐるからであったらう。
 東方のマホメット教徒、殊にペルシャのマホメット教徒は、ユダヤ教徒には非常に寛容であった。実際、マホメット教の経典は、ユダヤ人の聖書である『旧約聖書』の焼直しであるといって差支へないのである。
 マホメット教徒の神聖な場所が4ケ所ある。それはメッカとメシナとヘブロンとエルサレムである。後の二つはユダヤの国にある。アラビヤ人は、ユダヤ人と同じ系統の言葉を持って居り、おそらく同じ系統の人種であらう。その上、マホメット教に於いては、アブラハム、イサク、ヤコブを非常に尊敬する。彼等はみなユダヤ人である。アブラハム、イサク、ヤコブの墓は、マホメット教徒が最も神聖な場所としてゐる。かうした関係でもあらう、マホメット教が欧洲に浸入すると共に、ユダヤ人の追放令が出た。それは1820年の事であった。

 ロシアに於ける迫害
 旧ロシアの地域内のユダヤ人は、その数に於いて頗る多く、約500万人以上を数へてゐる。ユダヤ人がロシアに移住し始めたのは、1791年であることになってゐる。しかし、1882年には、ノブゴロッドの虐殺があり、1907年、日露戦争直後、キシュエフに於いて、大きな虐殺があったりして、ギリシヤ教徒のユダヤ人迫害の歴史は、全く血なまぐさい。
 欧洲大戦後、そのユダヤ人の大部分が、ポーランド国境内に生活するやうになったので、ポーランドでも、ユダヤ人の問題は大きな問題として、なほ解けずにゐる。ルーマニヤに於いても、ユダヤ人の差別待遇は、ロシアに於いてと同様である。殊に、ユダヤ人があまりに賢い民族であるために、彼等の地位が高まってくれば来るほど、嫉妬心を起して、ユダヤ人を迫害することは、まことに気の毒なことである。

 ユダヤ人迫害の歴史
 全く、ユダヤ人の歴史は迫害の歴史であり、それは血の歴史である。紀元前1600年頃、ペルシヤ湾に近いカルデヤのウルを出発したアブラハムの一族は、僅か72人の遊牧団体であったが、3500年の後に、1500万に近い大民族となったのである。彼等は、その民族の出発の時から、放浪民族として運命づけられてゐる如く考へられる。彼等が饑饉に追はれて、エジプトに移民すれば、わづか400年後に壮丁60万を持つだけの大民族に増加した。エジプト王はこれを迫害して、あらゆる圧制を加へた。つひに彼等は、沙漠に逃げ込んで、40年間アラビヤ沙漠に彷徨し、みづから奴隷解放の運動に成功した。
 しかし、辛うじて独立国を組織したユダヤ民族は、勢力争ひのために南北朝に分裂し、イスラエル北朝は紀元前722年に滅亡し、南朝は紀元前586年に滅亡した。そして、これらの散らされたユダヤ民族は、或る者はエジプトに逃げ、或る省は地中海の沿岸に落ちのび、東に逃げてきたものは、支那河南省あたりまでやって来てゐる。米国宣教師スミス氏の記載によると、河南省に逃げてきたユダヤ人は、いまだに『旧約聖書』の破本を持ってゐるさうである。それは兎に角として、ユダヤ人が世界的に散らされた事実は、まことに悲惨なものであった。

 ユダヤ人の叛逆性
 その後彼等は、再びクロス王の解放令によって、地中海の東岸、パレスチナに帰ったが、こんどはまた、マケドニヤの大王アレキサンダーの馬蹄に蹂躙せられた。しかし、また約200年間マカベ王朝の下で独立国家を持ってゐたが、ジュリアス・シーザーのために、ローマ帝国の属国にせられた。
 ユダヤ人迫害の偏見が、欧洲人に根強く植ゑられたのは、ローマ政府がユダヤ人の叛乱に懲りたからであった。実際ユダヤ人の血のうちには、天才的の分子が多分にあると共に、武力で征服出来にくい叛逆的精神が盛られてゐる。その最もよき例として、『旧約聖書』に残ってゐる列王記略を読むがよい。イスラエル北朝には、わずか19代の王の間に、革命が9回あった。それがみな成功して、後にはみな倒されてしまった。このしつこい革命的精神が、ローマ時代に特に強く働いたらしいのであった。そして、この革命的精神が、ユダヤ教と相関関係を持ってゐたから、なほ情熱的であった。
 ユダヤの国からユダヤ人の最後の影が見えなくなったのは、紀元135年、約58万人のユダヤ人が虐殺せられた後であった。この時の革命は、バルゴキバが指導したのであったが、彼等の元気のいいことには全くびっくりさせられるほどである。
 それまでに、革命は幾十回も繰返されてゐる。『新約聖書』の使徒行伝にも一つ書いてあるし、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』には、キリストの在世中にも、アスロンゲスの革命があったことを書いてゐる。キリストも、革命の指導者に推されたことは、『新約聖書』ヨハネ伝第6章5節に出てゐる。しかし、キリストは、このユダヤ人の革命主義的欠点を知ってゐたためか、永遠の国と、絶対の愛を指差して革命を避けた。しかし、その後にも、革命は次から次に起った。そのうちで最も大きいものは、20年間ユダヤの国であばれた革命的馬賊エリーザであった。
 不幸にして、かうした結果が、皇帝クラウデオのユダヤ人追放令となった。(使徒行伝18・2)恐らくこれが、ローマ帝国に於けるユダヤ人追放令の最初であったらうが、革命的のユダヤ人は、そんなことではへこまなかった。
 ヨセフスの書いた『ユダヤ戦記』を読むと、彼等の革命熱のはげしいことには全く驚かされる。たまたま、へロデ大王が築港したカイザリヤ港の問題から、ギリシヤ人との闘争が起り、ユダヤ人はカイザリヤをユダヤ人のものと主張し、ギリシヤ人はこれを自己のものと主張し、皇帝ネロがギリシヤ人に加担したために、革命となった。そして遂に、紀元70年7月17日、エルサレムはローマ軍に蹂躙せられ、8月10日に至ってへロデ大王が数億円を費して建造したエルサレムの神殿は燃えてしまった。その時の虐殺は、想像も出来ないほど大きなものであって、数百万人が殺されたらうと考へられてゐる。
 かくしてエルサレムを失ったユダヤ人は、エジプトに逃れて神殿を造るものがあり、バビロンに逃れて定住する者があり、思ひ思ひに、安住の地を求めて世界中に散った。エジプトに逃れたユダヤ人は、トラジアン皇帝の時に、革命を企てて自らの王を選んだこともあった。そのために、またユダヤ人の迫害が起った。
 かうして最後の断末魔がやってきた。即ち、ドミティアヌス皇帝以後、ユダヤ人の政治結社の迫害のみならず、思想運動にまで暴圧を加へ、紀元132年頃、ハドリアヌス皇帝がユダヤ人の割礼を禁止した結果、再び、ユダヤ国に於けるユダヤ人が叛逆するに至った。その指導者はアキバと称する祭司であって、彼は2年半の間、エルサレムで独立国を組織してゐた。しかし、遂に、紀元135年に到って、ユダヤの国は人影さへ見ないほど荒れるやうになった。
 私は、1925年6月、ユダヤの国を訪問した時、嘗てキリストが住んでゐられたカペナウムを訪れて、カペナウムの教会堂が、紀元135年頃に倒れたまま遺ってゐるのを見て、びっくりしたやうなことであった。ユダヤは沙漠地であるために、空気が乾燥してゐて、1800年前に倒れた建築物でも、咋日地震で倒れたやうな感じを与へた。またエルサレムにも、ハドリアン皇帝の時代に出来た兵舎といふのが、そのまま遺ってゐる。
 しかし、ローマ帝国の政策は、暴圧の一本調子ではなかった。キリスト教徒に対する迫害などでも、約300年間に、前後10回の大きな虐殺があったけれども、必ずしも、連続的の迫害はなかった。同様に、ユダヤ人に対しても、その迫害は非連続的であった。否、その中間の期間に於いては、多少の自由さへ持ってゐる時があった。カラカラ皇帝の時の如き、彼等は相当に手足を伸ばして、ローマ帝国内に安住してゐた。しかし、テオドシウス2世の頃からは、安住はしてゐたが、差別待遇を受けるに到った。即ち、クリスチャンとの結婚を禁止せられ、クリスチャンの奴隷を使用することを禁止せられた。
 ユスティニアヌ皇帝(527―565年)の時に到って、ユダヤ人は、思想的干渉を受けるやうになった。そして537年の法令によって、ユダヤ人の宗教法律にまで干渉をし、極端な差別待遇を実施するにいたった。そしてホロニアス帝の時代になって、ユダヤ人は凡ての公職に就いて特権を奪はれてしまった。
 バビロンに逃れたユダヤ人は、ユーフラテス川とチグリス川との間の平野を占領して、非常に幸福な生活を続けてゐた。彼等はペルシヤ人に愛せられ、文化も進み、二つの大学をさへ紀元11世紀頃まで持ってゐた。その二つの大学といふのは、紀元219年頃に創立されたスラ大学とネハドリア大学であった。大学はまた一つの議会でもあって、政洽的にも他民族から掣肘をうけないで、独立してゐた。マホメット教が伝播してもバグダッドの王は、ユダヤ人に非常に寛容であったために、彼等はすぐれた勢力を持つことが出来た。実際ユダヤ人は不思議な民族であって、紀元前722年に北朝が滅亡し、紀元特586年に南朝が滅亡した時でも、捕虜になって行ったダニエルは、副王の位置になり、ユダヤ人の娘のエステルは女王の地位にあげられた。そして、約1200年後のユダヤ人が、ペルシャに於いて同じ地位にのぼったのであった。
 しかし、回教徒の他の地方に於いては、こんなに巧くいかなかった。彼等は、激しく迫害せられて、ずゐぶん困った。

 ラテン諸国に於けるユダヤ人と迫害
 しかし、皇帝シャレマンがユダヤ人に寛容であったために、そして後には回教徒がスペインに浸入したために、ユダヤ人は抵抗の弱い処へ浸入して行った。そして、スペインは、ユダヤ人文化の中世紀に於ける中心地になった。哲人スピノザの思想的父とも考へてよいナモニデスは、スペインのユダヤ系詩人であった。スペインに宗教裁判が盛んになると共に、ユダヤ人は、信仰の自由を失ひ、マラニズムと称する信仰を持つやうになった。マラニズムといふのは、日本の天主教徒が徳川時代に九州平戸で、カムフラージしてゐた宗教に似てゐる。彼等は表面上キリスト教で裏面はユダヤ教徒であった。
 オランダ政府が宗教改革以後、喜んで彼等を歓迎したので、スペインのユダヤ人は群をなしてオランダに移住した。
 しかし、悲しいかな、マホメット教の欧洲浸入が熾烈になった時に、十字軍の捲添へをくって、ユダヤ人は中央ヨーロッパ、ラインランドに於いて、1096年激しい虐殺に遭った。この頃は、英国に於いてすら迫害があったといふことである。この迫害を見るに堪へないで、クラルボーの聖者ベルナールは、ユダヤ人解放運動を起したといふことである。
 これより先、ユダヤ人は、紀元9世紀、ルイ敬虔王の時代に非常な幸福な自由を味ってゐた。しかし、ユダヤ人が、多妻制度を実行してゐたために、紀元11世紀に差別待遇をうけるやうになった。そしてそれがだんだん醗酵して、紀元1190年、公然ユダヤ人の排斥が始まり、紀元1218年には、リチャード1世によって。ユダヤ人に徽章を佩用することを命令するに到った。
 十字軍が起るに到って、この差別待遇は更に激しくなり、第2十字軍の時には、法王インノセント3世が、ユダヤ人に対する差別待遇を宣告して、凡てのユダヤ人は徽章を佩用すべきことを「法律」によって命令した。
 フランスに於いては、フィリップ4世が、14世紀の初頭(1306年)ユダヤ人追放令を発布した。それより9年後、ルイ10世が呼び帰したが、1394年、第2回目の峻烈な追放令が出た。
 14世紀の中葉(1348―1349年)に起った黒死病は、ユダヤ人が井戸に毒を入れたためだといふ風説が伝はって、ユダヤ人は、欧洲各地で大虐殺に遭った。これは、英国に於いてもドイツに於いても同じことであった。
 しかし、イタリーに於いては、法王庁がユダヤ人に対して比較的寛容であったために、彼等は極端な差別待遇をうけなかった。しかし、間もなく差別待遇をうける理由が出来た。それは、法王庁が資本主義的搾収を禁止し、キリスト教信徒に対して絶対に禁止されてゐた金貸業を、彼等が進んで営むやうになったことであった。シェークスピアの『ヴェニスの商人』を読んでみると。ユダヤ人シャイロックが、強慾非道な金貸業として、人肉をすら削って持って帰るやうな冷酷な人物として描かれてゐる。かうした態度が、ユダヤ人の嫌はれるやうになった理由の大きなものであらうと私は思ふ。

 ユダヤ人の解放
 ユダヤ人がヨーロッパで自由を得るやうになったのは、宗教革命以後のことである。1579年ユトレヒトの同盟が結ばれて以後、ユダヤ人に比較的自由が与へられた。17世紀になって、英国の属領では、ユダヤ人の自由が絶対に認められるに到った。今日でも、英国の属領内には、400万人に近いユダヤ人が住んでゐる。そして地方によっては、属領地の総理大臣になってゐる者もある。その系統は主としてスペイン系のユダヤ人である。
 モセス・メンデルソン(1729―1786年)がユダヤ教のために改革運動を起したのは、18世紀の中葉であったが、この運動は、ヨーロッパ諸国民に非常にいい感じを与へた。この運動のために、ユダヤ人の間で、寄留地に定性しようといふ精神をおこした者が沢山出た。
 時恰も、ペルシャ在住のユダヤ人の間に、みづからメシアと称して、ユダヤ国再建設運動を始めたサバタイといふ男があった。そのためにヨーロッパのユダヤ人は熱狂して、メンデルソンの帰化運動を馬鹿にして、ユダヤ王国建設を夢みた者も多かった。ところが、この自称メシアのサバタイが、いざといふ瞬間に、マホメット教に降参して、命を助けて貰へば、マホメット教信者になるといひ出した。これが、欧洲に於けるユダヤ人の目の開く一大動機になって、もはや、ユダヤ帝国の建設などといふことは、考へない者が多くなった。
 その頃である。オランダ政府は、断然ユダヤ人に絶対の自由を与へ、公職は勿論のこと、議員にする資格すら与へた。それに続いて、ナポレオンは1807年にユダヤ人に部分的の自由を与へ、1821年、ギリシャのユダヤ人に対する宗教裁判がなくなり、1815年、ベルギーはユダヤ人に自由を与へ、1858年、スペインはユダヤ人の差別待遇を撤廃し、その翌年、イタリーは同じ態度に出るに到った。
 デンマークに於いては、1815年頃、既に、ユダヤ人に市長になる特権を与へ、1848年のフランス革命の影響を受けて、フランスが市民平等の建前から差別待遇の制度を撤廃すると共に、デンマークでも、ユダヤ人に対てデンマーク人と同様の権利を賦与した。
 スヰツランドでは、ユダヤ人が動物を殺す方法について賛成しがたいといふので、他の諸国が自由を与へてゐたに拘らず、1874年まで、ユダヤ人に平等権を認めなかったが、遂にその年に平等の権利を国家として保証した。

 ユダヤ人のシオン運動
 サバタイの失敗によって、一時忘れられてゐたユダヤ帝国の夢想が、1875年、テオドール・ヘルツルによって、再び盛り返された。これが有名なZionist運動として知られたものである。この運動は、神の力によって、必ずユダヤ民族がユダヤに復し得ることを信ずるものである。しかし、このシオン運動は、メンデルソンのやうな帰化論者や、米国に於けるラビ・ワイズのやうな自由主義のユダヤ人の間には非常に評判が悪く、ユダヤ人の間に故国に帰らうといふやうな考へを持ってゐる者は非常に少いことがだんだん解ってきた。
 1925年、私がユダヤの国を訪問した時に、ガリラヤ湖畔のタイベリヤスの宿で、私は、シオン運動の指導者としてユダヤに帰ってきてゐるユダヤ系の英国婦人に逢った。その婦人の云うてゐることによっても、シオン運動が、決して列国に散在するユダヤ人の間に大きな力を持ってゐないといふことかわかった。寄附金も思ったほど集まらず、ユダヤに移住しようとする人々も存外少く、ユダヤに於けるユダヤ人の人口は、5万人を少し超しただけであった。殊に、寄附金があまり寄らないとわかって来ると共に、共産主義の理想で始めたシオン運動が、共産主義を離脱して、協同組合化しつつあることを知り得て、非常に面白く私は思った。
 寄附金を受けてゐる間は、消費的共産生義を実行してゐたが、寄附金が止まると共に、自らの勤労によって生活しなければならなくなり、ここに労働能率の差等が生じ、怠惰者と勤勉者との間に意見の衝突が起り、不生産的共産主義はもはや実行出来ないといふことがわかった。その結果、シオン運動の約80あった共産村が、約半分まで協同組合的経営の村に変ってしまったといふことを私は聞かされた。
 可哀さうなのはユダヤ人である。理想的な国家をつくらうと思って、沙漠にも等しい荒野に帰ってくるや否や、人口約75万くらゐあるユダヤ土著のアラビヤ人のために、虐待されるといふ困難に直面した。これは、最近10年間、引続いて起ってゐる現象であって、おそらく、英国政府もこのアラビヤ人の主張を暴圧出来ないであらう。なぜならば、これらのアラビヤ人は、全部マホメット教徒であるために、あまり、彼等を圧迫すれば、英国属領地内に於けるマホメット教徒が沈黙してゐないからである。
 1914年8月に始まった欧洲大戦に際して、英国人は、その領土内に居住する約400万人のユダヤ人と、世界に散在する1000万人以上のユダヤ人の欲心を買ふために、パレスチナの聖地をユダヤ人に解放する旨を宣言した。その約束は、戦争がすんでもまだ実行されなかったが、1924年、バルフア卿は自らパレスチナを訪問して、アラビヤ人の反対を押し切り、シオン運動に徹底的援助を与へることを約した。
 しかし、ユダヤの国は、雨量の少い処である。2月と10月にしか雨の降らない国であって、今のままでは、到底数百万の人口を抱擁するだけの面積はない。況んや1500万人に近いユダヤ人を容れるとしては、あまりに狭すぎる。パレスチナは九州より狭く、四国よりやや大きいだけの面積しかない。九州には人口が800万人這入ってゐるが、決してゆっくりしてゐるとはいへない。それであるから、1500万人も容れようとするなら、今のパレスチナの3倍あっても足りないであらう。
 これを知ってゐる世界のユダヤ民族は、必ずしも、地上のユダヤを理想国とは考へてゐないのである。そこで、世界列国に、自由派のユダヤ神学校が建てられ、『旧約聖書』の約束を精神的にとり、シオン山の回復といふものを(シオンといふのは、ダビデが最初神の神殿を建造した山のことである)精神的に理解して、決して地理的には考へなくなってゐるのである。
 実際、私は、ダビデが最初神殿を造ったといはれるシオン山を訪れたが、そこは実に狭い猫の額のやうな処で、どうして理想の国家が建てられるかと思はれるほど狭い感じを与へられた。
 勿論、今でも正統派のユダヤ人は、エルサレムの城壁の一部分に接吻して、毎金曜日にエレミヤの作った哀歌の一節を泣きながら唱へることを希望してゐるだらう。最近の報道によると、アラビヤ人が、この祈の場所に飛び込んで行って、ユダヤ人の数人を虐殺したといふことである。それで、千幾百年祈りつづけて来たこの有名な祈の場所が、臨時政府の命令によって、閉鎖されてゐるといふことも私は聞いた。
 私は、その祈の場所へ行って、ユダヤ人の泣いてゐる姿を見て心から同情したが、いたづらに地理的回復を祈ることは、一種の偶像教であるやうな気がした、キリストは、『わが国はこの世のものならず』(ヨハネ・18・36)といはれたが、ユダヤ人が、このことを理解しない間は、ユダヤ民族の国権回復運動は、なほ続くであらう。