弘前、葛西市政の一利と一害 寶田時雄
今青森県弘前市では市長選挙が行われている。現職と共産党の一騎打ちだか、どちらが勝つということより投票率が気にかかるという。東京ともそうだったが、総じて関心が薄い選挙だ。
中国古代の堯の時代のように、わずらいを感じさせない政治をしてくれるのなら、それで結構ということなのだろうか。当時は、税も納める、多少の無理も聞く、文句も言わない、だけど自分たちの生活は自由にやりたい、だから邪魔だけはしないでくれ、と皇帝を船に例え、庶民を水もしくは、大勢集まれば海になぞらえて船を浮かべていた。
いまどきは酒の名前になっているが,上善如水(一番善い生き方は水のように生きること)が彼らの生き方だ。一滴が集まって渓谷の流れとなり、中流では万物に潤いを与え、動植物の生育を援け,丸い器や四角の容器にも納まり、泥水は清水を受け入れ、清水も泥水を受容する。永年そこに留まることも厭わず,大河となって海にそそぎ、船を浮かべ、怒り荒れれば船を転覆させる。陽光によって大気となり雨となって降り注ぎ、また同様に循環する。それは人生と同じで、そのような生き方が最良な生き方だと達観もしくは諦観をいだいている。
だから、彼らは政治を語らない。虐政も善政も天恵のように受け入れている。政治権力が転換しても、封建から国民党、そして共産党に代わっても、意に介すこ とはない。頭(首領)が代わるだけで、お天道様(太陽)は輝き,干天には天恵の雨の潤いがある。だだ、天が怒れば凶作となり、大気に随う人々の気は激動す る。為政者の祷りが乏しく、つまり天意に逆らった政治をしたからだと民衆は群れになって怒り、猛動して政権を転覆させる。いまは選挙による政権交代だろ う。
だが、扶養や補助を通じた援助は、さもしく依頼心を増幅させ、自律(立)性を阻害することがある。公務員の普遍的給与基準はあって も、市民の所得環境は宿命的といえるほど疲弊している。政策の真の折り合いと成否は、もの言わぬその部分に在る。しかし,多くの議員も、公位にあるもの も、その食い扶持部分には触れない。
むかしは手本とした改革者は先ず身を削った。それは家族の妻や子供にも質素を強いた。いや当然として行った。昭和天皇は雨漏りする御所の建て替えをすすめる侍従に「国民はそのような状態ではない」と叱責した。それが高位高官の鑑とする倣いだった。
つまりすべての前提にある「信」と「忠恕」の在り様であり、公務に就く者の矜持でもあった。
たとえ貧しくとも庶民には人情がある。深く熱い人情は国の法律より上位にある。
為政者が贅沢をしようと、法を盾に強権を振ろうと、文句は言わない。たとえ税が厳しくても、民衆の自由な躍動を邪魔しなければ、異なる世界の住人の為せる行為として、自然の災害に対するように強靭で柔軟に諦めがある。
そこには民主だとか選挙だとかは彼らにとっては煩いでしかない姿がある。だだ、旗が代わる(易織)だけだと思っている。色でいうなら国民党も共産党も旗色が代わっても、民衆の生活は変わらないと考えている。
問題は面前権力の姿だ。現代は警察と税務署だが、信号機の信頼と誤った時の罰則は為政者の意向であり、無謬性を察する庶民の依頼性でもある。中華民族は柔和 な従順さの陰に対策がある。大人しくしていては実利がない。実利の成果は罰金では意味がないと考える。四角四面の法制度は社会参加の最低限の前提として遵 法を約束するものだが、自由と依頼の関係は異なる民族の自立性の違いとなって国情を明確にさせ、天地の間に生きる中華民族は特異な天下思想を以て地球の表 皮に拡大している。
つまり我が国の個性化と国際化の結果は、社会の公徳心、国家への帰属意識も希薄になり財の欲望と狭い範囲の私的人情となって社会の連帯を放埓した状態に解き放った。それは、隣国との同化現象ともみてとれる。
公務員は「四患」が顕著になり、公徳心を背景とした遵法意識が強い地方の民衆は、怨嗟を秘め、潜在する情緒の善性を拠り所に日々生活の糧を求めている。四患 とは「偽り、私、放埓、贅沢」の病である。しかし、みんなで渡れば怖くない情況だ。漢の荀悦は皇帝から宰相の委任を受けたとき、官吏に四患があると、いく ら善政でも民衆に届かない。財は途中で吸収され、政策は捻じ曲げられ、国富は欠乏し、民衆は苦しむ。この四患を払うことができなければ、だれが宰相を受け ても民衆の苦しみを援けることができないと荀悦はいう。
弘前市長葛西憲之氏は経営型市政を掲げている。多くの施策とそれに見合う 組織を新設し、人材を転配して四年間の任期を問うている。任期中に起きた放射能風評被害でストップしたリンゴ輸出には自ら台湾に乗り込み市場調査、交換貿 易としてのマンゴー購入、台湾自治体との提携から子供交流と、独自の地方自治外交を積極的に行っている。前記した面前権力ではないが、役所の窓口対応を改 良し、今までは忘れがちになっていた市民目線の市場経営的施策を行い、職員の新たな教育的環境を作り出している。
以前はネガティ ブな状況が市政を覆っていた。地方にありがちな地元土建業者との関係、選挙応援への便宜供与、職員の職務弛緩は安定職高級待遇として市民の怨嗟を招き、安 易な補助金行政は市製不動産屋となり、市政に負荷をかけた。また教育委員会は習慣的惰性となり、困窮から非行に子供たちを向かわせることも少なからずあっ た。議会は通称もの言わぬ議会と揶揄され、なかには許認可に絡む事業を議員任期中に起業しようとする議員も現れた。つまり、四患の類が表れていた。
市長は市政の信は人の資質にありと、人事抜擢、配置転換、作業を通じての育成と多岐にわたる政策を提起した。前市政からの停滞した諸問題にも取り組んだ。そ れらの改革は外部の既得権を有する者だけでなく、内部の職員からも潜在する批判を受けた。しかし、本会議場を使った子ども議会における生徒の議論と意志 は、大人社会の忘却していた郷愛心と使命感を想起させ、市政を俯瞰した将来ビジョンは次世に継続できることを示してくれた。整地して多くの種を撒き、芽が 出たところを育てる、今までの葛西市政は多くの種を提供した。そして次期は選別集中に入るだろう。また利を積み重ねる前提は害(無駄)となるものの摘み取 りだ。つまり四患になるような部分の是正が要となる。
元の宰相、耶律楚材は「一利を興すは、一害を除くにしかず」と説く。つまり、新たなことを興す前に、一害を除けば、利が生じたと同じことだといっている。害は利を相殺するということだ。
滞留し、ときに習慣化した害は怠惰と腐敗を招く。それは、弛緩と共に無意識に慣習化されることだ。
葛西氏は登覧する位置で、使命感と実行への胆力が必要になってくる。大切なことは地位にこだわらず(恬淡)として、将来に期して成果を遺すことだ。つまり教 育行政への正鵠を得た側面援助と職員への公徳心の喚起だ。いまどきの説明責任もいらず、市民は安心して委任するだろう。いや、敢えて市政を巷間でも語るこ ともなく自由な躍動が起きるはずだ。
孔子は「まちつくり」の要諦は、「外の人来る、内の人 説(よろこ)ぶ」と説く。
独立郷津軽弘前の気概を以て、異なることを恐れない市政を遂行してもらいたいと願うのは、弘前市民だけではない、訪れるものの願いでもあろう。