国立歴史民族博物館で開催していた「東アジアを駆け抜けた身体(からだ)-スポーツの近代」という特別展。東アジアの近現代をスポーツという切り口から人間の生きざまを連想させるユニークな展示だった。特筆すべきは、国立台湾歴史博物館との共同研究の中から張星賢という戦前のオリンピック陸上選手の存在が発掘されたことだった。日本統治下とはいえ、台湾人として初めてのオリンピック選手となり、ロサンゼルス、ベルリン大会に出場した。ベルリン大会のマラソンで優勝した朝鮮の孫基禎(ソン・ギジョン)のように歴史に名前が残らなかったのは、張がメダルに届かなかったからなのかもしれないが、国民党下の台湾では日本統治時代が否定されたため、日の丸を背負ってオリンピックに出場した選手の名前など忘却の彼方の置かれていたはずだった。

 最強の早稲田陸上部で頭角
 張星賢は1910年、台中市に生まれ、台中公学校に在学中から陸上に目覚めた。父親の仕事で一時、大陸の広東省汕頭に移ったが、台中州立職業学校で頭角を現し、18歳の1928年の神功神社奉納陸上競技大会(台湾での国体のようなもの)で初優勝。その後の明治神宮体育大会にも出場した。1930年、台湾総督府交通局鉄道部にいったん就職したが、陸上への夢を捨てきれず、翌年、早稲田大学商学部に進学し、卒業までの3年間、当時、最強と言われた早稲田陸上部に所属した。数々の大会で日本記録を樹立したことで、1932年のロサンゼルス・オリンピック出場を果たした。
 日本がオリンピックに参加したのは、1912年のストックホルム大会からだが、ロサンゼルス大会では、競泳男子1500メートル自由形で北村久寿雄が優勝したほか、400メートル自由形を除く5種目を制覇し水泳王国日本を象徴する大会だった。また陸上では南部忠平が三段跳で優勝、馬術障害では西竹一が金メダルを獲得した。そんな中、張星賢は400メートルと400メートルハードルに出場したものの、ともに予選落ちした。無念の初オリンピックだったが、当時の400メートルハードルの様子は次のように日本に伝えられた。
「日本軍の先陣をうけたまはる張君は頑張れ! 頑張れ! の声援でスタートについた。此の組にはパリ大会の覇者米国のテーラーが居る。張君は頑張ったが、9台目ハードルでよろめいた時、ギリシヤのマンジカに惜しくも抜かれ4着になる」

 3大会連続出場ならず
 ロスアンゼルス大会の後、張星賢は満州国の満鉄に就職、満州国陸上チームの一員として活躍、1936年のベルリン大会でも代表として選ばれた。出場種目は1600メートルリレーだったが、ここでもリレーチームは予選落ちとなり、フラッシュライトを浴びることはなかった。同じ植民地の朝鮮から出場を果たした孫基禎と南昇竜(ナム・スンニョン)がマラソンで金、銅メダルを手にし喝采を浴びたのとは対照的だった。
 張星賢はその後もくじけず練習に励み、1940年に予定されていた東京大会の十種競技の候補として選出されたが、大会そのものが返上され、3大会連続の出場を果たすことができなかった。
 名桜大学の菅野敦志氏の研究論文「1940年と1964年の東京オリンピックと台湾選手」などによると、張星賢は1943年、北京の華北交通に職場を変え、北京で終戦を迎える。1946年、台湾に戻った張星賢は台湾省立台中師範学校に就職。すでに36歳だったが、同年10月の第1回台湾省運動大会では三段跳び、十種競技、1600メートルリレーで優勝。47年、48年の同大会でも活躍し同年、現役を引退した。台湾省体育会の創設、台湾省体育会田径協会(他径=陸上)などの設立にもかかわり、1947年から退職まで台湾省合作金庫に勤務し、1989年他界した。

 誰も知らないことが興味深く
 国立歴史民俗博物館の樋浦郷子氏は2月1日の日本経済新聞文化欄に「『日本代表』台湾選手の哀歓」と題して張星賢についての論考を書いている。「大学のころから日本の植民地支配の歴史に関心を持ち、台湾や朝鮮について学んできた。まったく知識がないわけではなく、その名を聞いたことはなく、一緒にいた日本側のメンバーも皆同様だった。誰も知らないことが興味深く、研究がスタートした」
 樋浦氏によると、台湾歴史博物館には、多くのオリンピック選手に関する資料が所蔵されており、近年、張星賢の家族から手記や多くの大会で獲得したメダル類が寄贈されているという。今回の研究の意義について「張星賢の資料を読み解くことは近代日本と世界の関係を読み直すことだと思うようになった。張星賢が生きた時代は歴史的知識としては広く共有されている。にもかかわらず、現代日本では『日本代表』として活躍した張星賢を知る人はほぼ皆無だ。…(中略)…戦後の国境線の引き直しに伴い、旧植民地への積極的忘却があったことも理由の一つだ。張星賢の人生を通し、私たちが何を『見てこなかったのか』という歴史的叙述ができると思う」と述べている。
 なお張星賢に関しては次のような研究書がある。雷寅雄『第一位参加奥運疋克運動大会的台湾人-張星賢』、曽瑞成編集『台湾百年体育人物誌』、林玫君『太陽旗下的鉄人-張星賢的田径世界』、『台湾教育史研究通迅2007年3月』「身体的競逐与身分的游移-台湾首位奥運選手張星賢的身分認同之刑塑与糾葛」、蘇嘉祥『運動巨人張星賢-第一位参加奥運的台湾人』。

 海の向こうの甲子園
 2014年、台湾で「KANO海の向こうの甲子園」という映画が製作され大ヒットとなった。植民地下の台湾の嘉義農林という中学に永瀬正敏扮する日本人教師、近藤兵太郎が赴任し、一度も勝ったことのない野球部を指導し、嘉農(KANO)はあれよあれよという間に台湾大会で優勝し、あこがれの甲子園でも決勝戦まで勝ち上がった物語だ。「日本人は守備がうまい、漢人は打撃がうまい、そして高砂族は足が速い」。監督にとってそんな三民族混成チームが誇りだった。
 『セデック・バレ』をヒットさせた映画プロデューサー・魏徳聖が、関係者がまとめた嘉農野球部に関する甲子園出場の記録を映画化した。日本でも2015年に公開され大きな話題となった。植民地時代を描く映画のため、「全篇、日本語ばかり」という批判もあったが、李登輝前総統以来、日本統治時代を“再評価”する風潮がある中で記録的な興業成績を上げたことは確かだった。
 その後、近藤兵太郎監督のもとで何度も甲子園出場を果たした嘉農の呉昌征は戦前戦後と日本のプロ野球で活躍した。巨人、阪神、大毎を渡り歩き、何度も首位打者を獲得、1946年には阪神時代投手としても活躍、14勝を挙げ、打率もリーグ14位の0.291を記録、プロ野球初の二刀流選手として名を馳せた。嘉農野球部は現在、嘉義大学となったキャンパスに「KANO」コーナーを設け、栄光の時代を顕彰している。
 いつか「張星賢物語」が台湾でクランクインする日もあるのではないかと期待している。
 
 国立歴史民俗博物館は2014年、台湾の台南市にある国立台湾歴史博物館と相互交流に関する協定を結び、日本と台湾の近代史に関する貴重な共同研究を開始。2016年には「台湾と日本―震災史とともにたどる近現代-」を共催した。特別展「東アジアを駆け抜けた身体(からだ)-スポーツの近代」は3月で終了したが、今後は、国立台湾歴史博物館でも巡回を予定している。(Think Asia掲載、萬晩報主宰・伴武澄)