事変と戦争のはざま
第二次大戦で敗戦後、連合国は戦争指導者を戦争裁判に付した。その際、満州事変に遡って罪を訴求したことに違和感があった。長年のそんな思いが最近、氷解した。石川好氏が李徳全の本を上梓した際の講演をユーチューブで聞いて「なるほど」と思った。概略は下記の通りである。
昭和の歴史で、日本はずっと「事変」でやってきた。満州事変、上海事変、日支事変。対米戦争が始まる前の10年間、日本は中国と戦争状態にあった。第二次大戦開戦時、世界には主権国家が60カ国あった。その3分の2に戦争を仕掛けた。吉田茂でさえ知らない国があった。重要なことは中国には宣戦布告をしなかったことである。これはアメリカの中立法に関わる。もう一つ、戦争法、捕虜の問題もあった。上海事変で中国は20万人、日本は9000人が犠牲となった。
開戦から4日後の12月12日、大日本帝国政府は閣議で「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ」次のように決定した。
一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス[以下省略]
つまり、遡って「大東亜戦争」を定義したのである。第二次大戦に参戦したのは1941年12月8日であったのに関わらず、戦争犯罪が1937年に遡って訴追されたとしても矛盾はないのである。
石川好氏はもう一つ重要はことを話した。蒋介石政権は1942年2月、日本に宣戦布告したというのだ。近衛内閣は「国民党は相手にせず」と政府と認めなかったのだが、蒋介石の宣戦布告により1942年12月、中華民国は連合国の一員となった。最も重要なことは、連合国の一員となった結果として、100年に及ぶ屈辱だった治外法権が解除されたことだった。
中国にとって、蔡二次大戦の戦勝国となった最大の成果は、日本に勝ったことではなく、孫文以来の悲願だった「独立」を勝ち得たことだった。
戦後の日本の問題は、宣戦布告していない国と15年間、戦争した空白に時間があり、その国とどうやって国交を結ぶのかということだった。中華民国とは1952年、国交を締結するのだが、その時、中華民国はすでに中国大陸を追われ、台湾に逃げ込んでいたのである。