兼山が育んだ山崎闇斎 夜学会189
日時:2月19日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄
19歳の若き僧、山崎闇斎(1619-1682)が京都から土佐に放逐され、南学を学び、京都に帰って大儒家となったことはよく知られた話である。その闇斎を導いたのが野中兼山(1615-1664)であり、京都に戻った後も支援し続けた話は「土佐を語る」で知り、少々驚いた。兼山は父親の死によって21歳で土佐藩奉行職を継承した。奉行職に就きながら、谷時中から南学を学んだ。闇斎が送り込まれたのは吸江寺だった。土佐南学は、吉良宣経に仕えた南村梅軒(?-1579)が起こしたとされ、谷時中(1598-1650)によって再興された。どこで兼山が闇斎と出会ったか不明であるが、共に谷時中に学んだ。闇斎の才能を見出した兼山は土佐藩への仕官を画策したが、果たせず、1655年、闇斎は京都に闇斎塾を開き、垂加神道を説いた。多くの門下生を育て、後の水戸学など尊王思想のバックボーンとなる。
その闇斎の思想が兼山の経済的支えによって広がったことは我が高知県にとって重要なことではないか、近頃そう考えるようになった。
土佐は幕末、明治維新を断行した多くの人材を輩出した。かつて僕はそれを第一弾ロケットと称し、第二弾は自由民権運動だったと書いたことがある。実はその前にもロケットが発射されていたことを知った。先週話した義堂、絶海もそうだったし、山崎闇斎もまたそうだったのだ。