日本人にとっての鬼 夜学会190

日時:2月26日(金)午後7時から
場所:WaterBase
講師:伴武澄

 2月26日、NHKの番組「日本人のおなまえ」で熊野地方に「鬼」の地名が多いことを報じていた。市木、木本、二木、三木、七鬼の滝、八鬼山、九鬼、鬼が城。「木」は元々「鬼」と表記されていた。一から九までないのは四、五、六のみっつだけ。なぜ熊野に「鬼」が多いのか解明するのがテーマだった。古代の日本では疫病などがはやると鬼の仕業だと考えた。鬼たちが出没するのは「結界」と呼ばれる「穴」。そこを抑え込むことで鬼の出没を抑えられると考えたようだ。奈良時代、役小角が修験者として吉野にいた前鬼と後鬼の夫婦をてなづけた。後に人間となった夫婦は五人の子供をもうけ、一鬼から五鬼と番号で名付けた。その子孫が今も下北山村に住む。五鬼助という苗字を名乗っている。
 万城目学が書いた「鴨川ホルモー」は平安時代に都を苦しめた鬼たちを現代によみがえらせる手法でファンタジー作家としての地位を確立した。その時以来、僕は日本の鬼たちに興味を抱いた。鬼って何なのだろうか。多くの本を読んだ。結論めいたものはないが、朝廷が「まつろわぬ者」を「鬼」と呼んだ形跡がある。神武天皇の東征物語はまさに「鬼たち」を成敗した話が続き、大和朝廷を橿原に地に開いた後も多くの鬼たちが朝廷に歯向かった歴史がある。陰陽道を開いた安倍晴明は鬼語を理解し、鬼たちをてなづける術を行うことで朝廷内に一定の地位を築いた。
 なぜ熊野の地に鬼たちが多いのか、NHKは「結界」があったと結論づけた。放映にはなかったが、僕は熊野信仰とのからみを考える必要があろうと思う。平安末期、上皇たちが熊野詣を繰り返した。そして蟻の熊野詣という言葉が生まれた。天照大神をまつる伊勢神宮は庶民のものではなかったため、多くの参拝者が熊野に向った。平家の公達たちの多くが熊野で生まれ、宮中にも熊野の人々が少なからず存在した。古くから熊野には水軍があった。海賊でもある。まつろわぬ人々をてなづけたのが平家であった。その子孫が鬼と呼ばれてもおかしくない。その平家はやがて源氏に敗れるのだが、屋島の戦いで熊野水軍が源氏に寝返る。そのことが敗因だった。寝返りをさせたのが義経の家来、弁慶だった。弁慶は当時の熊野ナンバーツー熊野別当の子とされる。朝廷からみれば、平家も源氏も熊野も鬼的存在だったはずだ。
 ちなみに熊野神社の神官は「くかみ」さんという。「九鬼」の鬼の上の点がない字だ。ワープロにはない。喜界島もかつては鬼界島と書いたそうだ。鬼の読み「おに」は隠(おむ)からきたとされる。「みえないもの」つまり「おそろしいもの」「つよいもの」に対して使われた形跡がある。また、鬼と神は表裏一体のものでもある。鏡の中の存在でもあろうかと思う。土佐は古来、流刑の地だった。鬼の住む地とされてもおかしくない。いつまでも「まつろわぬ」人々でありたいものだ。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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