山内容堂

土佐藩主だった山内家は土佐国への進駐軍だった。そんなことをずっと考えてきた。殿様の正室は大名や京都の貴族から迎えられ、殿中で土佐弁などしゃべっているはずがないとの思いがあり、NHKなどで見る山内容堂は土佐なまりの言葉をしゃべっているのに違和感を感じてきた。

ところが、そうではないことを最近知った。故山内豊秋氏が高知新聞の連載「土佐人」(昭和56年)で語っている。

「歴代の正室は、岡山藩・池田家、長州藩・毛利家、薩摩藩。島津家といった大名の息女。従って、土佐の血が混じる機会がなかった。結婚の形も、孤独な藩主をつくったようだ。側室の子の例外はあるが…」「豊秋さんの目には、一豊タイプの、」おおむえ冷静、沈着な政治家ぞろい、と映るそんな中の異色、型破りが十五代に容堂であろう」「歴代、まじめ人間ぞろいだが、一人、容堂のときに、土佐の血が入る。母は側室で城下に住む大工の棟梁の娘です」

なんだ、そうだったのか。容堂が土佐弁をしゃべってもおかしくないことに合点した。

「容堂は、一流の知識人や幕府の要人らと接触し、江戸、長崎で情報を集めさせた。激動、波乱の時代に向いた藩主だった」

ここからの豊秋氏の「土佐人観」がおもしろい。

「維新以来、難しいときには、土佐の血が活躍します。国全体を見、時代の流れをよく知り目眼を開く。そして筋を通す。時代の節目に必ず、土佐人がいるのも、血でしょうかねえ」

そして「ここからは言いにくいところだが」と断って、

「あいつがえらくなりやがって…。と変な反発を必ず見せる。後輩がそんな調子だから、東京、大阪に出て、盛んにやっておる先輩が、郷里のことをかまわんですね。どっちもどっちですが、ちょっと寂しい。その昔、岩崎弥太郎が出て財閥を築いた。郷里の人がどれだけもえいたてたか、岩崎さんもどれだけ郷里の面倒をみたか」