東亜同文会が南京に学校をつくったのは1900年5月。翌月、義和団の乱が起こり、1901年に上海に拠点を移して東亜同文書院と改称した。列強の中国進出に対抗して「支那の保全」を掲げた東亜同文会であったが、旗揚げ直後から、清朝の政治的混乱や連合軍による北京占領など列強の軍事力を目の当たりにすることになる。1900年、教員として南京にあった山田良政はまもなく、孫文の革命に合流し、10月、広東省恵州で戦死した。
 東亜同文書院は、中国事情に精通した人材を育成する目的で設立され、終戦まで上海にあったが、その活動でユニークだったのは卒業大旅行だった。「大旅行誌」の踏破録に「外人の跋跡稀なる内地数千里外の民物情況を探り及び各要津の紛錯せる機微を開き、其の政治経済商勢の詳悉を探知せん」とその目的を掲げた。この卒業大旅行が始まったのは第5期生から。満州から天津、長沙、広東など七方面、6―8人一組となって貧乏旅行を敢行した。
この卒業大旅行は「調査旅行報告書」と日記風の「大旅行誌」としてまとめられた。当時の中国の実情を伝える貴重な資料だった。今回は「大旅行誌1」から約110年前の中国(清国)の実情の一端を紹介したい。

 南船北馬
 1905年から5年間、清国の鉄道顧問となった原口要氏の「中国鉄道創業史」によると、辛亥革命時、中国の鉄道はロシアが敷設した満州の鉄道を例外として、まだほとんど整備されていなかった。鉄道は大都市間を部分的につなげていただけであり、学生たちにとってそれこそ南船北馬を地で行く旅だった。
 北方の旅には驢馬(ロバ)と騾馬(ラバ)が随所に登場する。また騾馬に荷車を引かせた中国轎(かご)もよく利用したようだ。ただし金持ちや高官が乗るようなものではなく、辻々で客待ちをしている貧相な乗り物だった。田舎の壊れた道を通行するには随分と重宝したようだった。
 旅行で最も困ったのは、宿の設備がどこもでも形ばかりで、非常に不完全なもの、且つ不潔を極めたもので、到るところで蟲(南京虫)や虱(しらみ)に悩まされた。食物は非常に粗悪で、到底堪えられるものではないことがそれぞれの報告に共通している。
 南方の旅では船が中心だった。上海―漢口には立派は客船があり、揚子江の南はほとんど水運でつながっていたことが報告されている。

 ダルニーと山東苦力
 山東半島から満州に渡った学生たちが目の当たりにしたのはロシアが築いた大連の町の偉容だった。まず桟橋の巨大なる様に驚く。「長春紀行」には「長さ二百間幅四十間小なる半島ともみまがう」といっている。町は扇型で、ロシア人によって造成された後、日本によって改修されたものだが、「ああこの苦心の果、心血の凝を見るにつけ之を我国に引渡して遠く北満に退かざる可からざるに到りたる時の露人の心理如何なりけむ」と憐れんでいる。一九〇五年、日露戦争で日本がロシアから割譲された地で、すでに町の呼称は大山通、乃木町、美濃町、伊勢町など陸軍の将軍名や日本の国名がついていた。大連の呼称そのものについても「元来清名を青泥窪と称し、ロシアが経営してダルニーと称し、皇軍の手に帰するや大連と改称せらる」と説明を加えている。
 清国のほとんどの都市は旧来の構造で、近代都市はイギリスがつくった上海など数少なかった時代に学生たちは度肝を抜かされたに違いない。
 次に驚かされたのは山東省から渡ってきた苦力の姿だった。「年々満州に入る数約20万」。満州はそもそも「清祖興起の地にして清朝政を支那全土に施すや特に此地を以て満族の根拠地と為し清朝の藩屏たらしめんと欲して住民は主として之を満州人に限らしめん事を計り令を発して漢人の出入りを禁ぜり」という地だった。しかしロシアは三国干渉によって大連・旅順を手に入れ、義和団の乱のどさくさにまぎれて満州全土を支配した。清国が満州支配の力を失ってから、山東省の人々は禁制を犯して次々と満州に渡り「今日満州の商工界の覇者は山東山西等の人民に帰する」「シベリア鉄道東清鉄道の如き全部これら山東苦力の労役に依りて竣成したるものなり」という様相となったのだ。
 日本を含めた列強の中国侵略は学生たちの眼にどう映ったのだろうか。満州一帯に広がるコウリャン畑を眺めつつ、清朝の故地である奉天の宮殿に入り、かつて版図を誇った帝国の盛衰を心に刻み込んだに違いない。

 江南の日本人
「浙贛湖広旅行記」には7月、上海を出発、杭州を経て銭塘江を遡行し、長沙に到る5000里(1里=約500m)の船の旅が記録されている。銭塘江は富陽から富春江と呼称が代わる。彼等が見たものは「一帯の地黄土にして桑樹を植え、樟樹多き」風景だった。樟樹はクスノキで樟脳の原料として幕末から日本の有数な輸出商品である。船主との会話は標準語が通じなかったため筆談も交えたようで「倭寇侵略の跡、呉の地、発音邦語に近し。二をニ、九をキューと発音す」などと記している。貧乏学生の旅は、厳州では「知府に歓待せられ礼砲を以ての歓迎」されるなど戸惑う場面もあった。
 やがて富春江は蘭江となり、さらに分岐して衢江に入ると衢州に到る。「山河の景致愈勝り行く水は青し」。浙江省の山間部は渓谷で水もきれいだった。風がなくなると帆をたたんで船を岸辺から引くことになる。衢州は福建省、江西省、安徽省、浙江省の貨物の集積地。当時は浙江省の樟脳によって栄えていた。学生達を驚かせたのはそんな山間の地に「三五公司」という樟脳を扱う台湾系日本企業の出張所があったことである。彼らは三五公司の客となり、久々に南京虫の襲来から逃れることになる。三五公司の樟脳取り扱いは「年額十万斤」というからなかなかのものだ。
 当時、大陸での日本企業の進出は福建省が突出していた。別の大陸の海岸伝いに広州までたどる旅行記には「寧波の在留外国人は凡そ200人、最も多きは日本と仏国。日本人は売薬、雑貨商、技師、職工多く、仏国人はほとんどカトリック宣教師」と記している。また福州では「在留外国人七百余のうち日本人は260人。但し日本人と称するものの内には台湾国籍を有する支那人過半数を占めたれば真に日本人と称すべきは120人にすぎない」。厦門では「日本人、1300人内1000人は台湾籍なり」。興味深いのは「福建省通貨は日本旧円銀最も多く行わる」と書かれてあることで、台湾を通じて、福建省を中心に日本の経済圏に属していたということである。
 付け加えるならば、厦門と汕頭が東南アジアへの移民の出身地で、「1906年統計では台湾と南洋行きの移民は5万8626人」「無一文の貧民も出稼年乃至十数年の後はみな相当の資産家として帰郷す、此の地方一代富豪の多きは全く此故に外ならず」と特記している。
数百ページにわたる大旅行記の中から、個人的に印象的な部分を書き出してきたが、二年後には辛亥革命が起きて清朝そのものがなくなり、中国大陸は軍閥の割拠する中、日本を含めた列強による浸食が進むことになる。次回以降、東亜同文書院の学生が見た生身の大陸情勢をお伝えしたい。(萬晩報主宰 伴 武澄)