サラワクと依岡省三
数年前のこと、青年海外協力隊員としてマレーシアのサラワク州ミリに派遣されていた高知県の女性を取材していた時、聞いた話である。かつてサラワクに白人のラージャ(藩王)が統治していて、依岡省三という人物がゴム・プランテーションを開き、日沙商会という会社を創設したという。依岡は高知県出身で、神戸で鈴木商店を経営していた金子直吉の後ろ盾を得て、サラワクに向った。
ボルネオ島は今では北半分がマレーシア、南側はインドネシア領となっているが、戦前までは前者がイギリス、後者はオランダの植民地だった。ボルネオ島の北側にはブルネイ王朝があり、スルタンが統治していた。ブルネイは今でも小さな独立王国として存在しているが、かつてボルネオ島北部を手広く支配していた。19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルターンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャに任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された。(ウィキペディアより)
サワラク王国は、ブルック一族のより三代にわたりこの国を支配した。依岡が進出したのは初代のジェームズの時代だった。ブルック一族は先住民の利益を守るため外国からの投資を一切禁止した。どういうわけか依岡だけは例外だった。国王の絶大なる信頼を勝ち得たというのだから面白い。依岡は会社設立後の1911年、マラリアに罹り死去するが、依岡の日沙商会は弟の省輔が経営を引き継ぎ、第二次大戦の時代まで続いた。
元協力隊員の話で面白かったのは、今でもサワラク州で中国人の比率が高いということだった。中国人は早い時代から東南アジアで活動を始めていたが、ジェームズがラージャになる前にサラワク州で金鉱山を発見して経営したことが中国人移住に引き金になったようだ。
省輔は鈴木商店の傘下にあった神戸製鋼所に勤めていた関係で、金子直吉の信頼を得ていた。鈴木商店は1920年代に倒産したが、日商岩井(現双日)、帝人など多くの企業群を残した。日沙商会もその一つで、1936年、新聞記者だった岡成志が『依岡省三傳』(日沙商會)を残しており、依岡の人生を語る数少ない証言として残された。その現代語改がネット上の「鈴木商店記念館」で読むことができる。https://yorioka.blogspot.com/