高知県三里村の人々 夜学会172
講師:伴武澄
日時:10月2日(金)午後7時から
場所:はりまや橋商店街Water Base
財団法人霞山会の雑誌ThinkAsiaの秋号に森小弁について書いた。自由民権運動の時代に翻弄され、南洋のトラック島に渡り地元の酋長にまで上り詰めたミクロネシア連邦の立志伝中の一人である。
高知県三里村に育ったのは、森小弁だけではなかった。同じころ三里村種﨑に育った萱野長知もまた、自由民権運動に関連した後、上海に逃れ、孫文の中華革命に尽くした。三里という地区に関心を持ったのは数年前のことである。たまたま、元共同通信社の記者だった山田一郎氏がかつて高知新聞に連載した「南風帖」を読んだ。山田氏もまた三里仁井田で育ち高知の学校に通ったという経歴を持つ。連載は幸徳秋水から始まる。三里出身として小説家の田中貢太郎、田岡典夫が登場し、後に高知新聞の論客となる中島及に広がる。ちなみに山田氏は『寺田寅彦覚書』で1982年芸術選奨新人賞を受賞した。個人的には結婚の際に仲人になってもらった関係である。
幕末、土佐藩は三里村に砲台を築いて外国からの侵略に備えた。土佐藩が抱えていた砲術家たち藩士が多く移り住んでいた土地柄で、普通の農漁村ではなかった。知的水準も相当高かったものと思える。そうした藩士の子弟たちが明治に入って頭角を現したとしてもなんら不思議でない。高知の自由民権運動が全国に広がり、新思潮を生み出した。その一角に三里村を位置づけたら面白いことになるのではないかと思い始めている。
三里村は坂本龍馬の銅像が立つ桂浜の対岸にあり、仁井田から堀川に巡航船が通じていた。明治22年、市町村制施行により種﨑村、仁井田村、池村が合併して三里村となり、昭和17年、高知市になった。陸路ではなく、海路でつながっていて、種﨑の人たちが高知市内の移り住んだ種﨑町を形成していた。後の中種、つまりはりまや橋商店街の前身、中種商店街は長く高知市内の中核商店街として繁栄してきた。
仁井田地区には龍馬の継母の家が現在もあり、龍馬19才の時、仁井田の浜で砲術の稽古をしたと言われている。隣接する仁井田吹井には武市半平太(瑞山)の生家と瑞山神社がある。