7月10日(金)午後7時から

場所:WaterBase

今年は日中友好協会が生まれてから70年になる。1950年は日本が戦争に敗れて5年、まだ連合国の支配下にあった。大陸では前の年の1949年10月、中国共産党が中華人民共和国を宣言していた。日本に外交権がない時代に大陸との正常化を目指す国民運動が起きたのである。イギリスはすでに中華人民共和国を国家として承認していたが、朝鮮半島では南北に分れて対立が激化していた。世界ではまだ東西対立という言葉もなかった時代である。

日中友好協会の初代の理事長に就任したのが内山完造だった。内山完造は1913年、上海にわたり、参天製薬の薬売りとなった。今もある大学目薬である。日本と同様に家の中が不潔だった中国で日本の目薬がよく売れた。内山は揚子江沿いに販路を拡大していったが、上海に残した妻のために書店を開いた。内山書店である。内山はキリスト教徒だったため、最初は宗教書を売っていたが次第に一般図書にまで広がった。

当時の中国の知識人は日本語に翻訳された欧米の書籍から知識を吸収していたから、内山書店は繁盛した。店を訪れる知識人との交流は広がり、日本の知識人が大陸を訪れる際の接触の拠点となった。芥川龍之介、賀川豊彦、吉野作蔵、多くの日本人を中国人とつなげていった。同じ時期に北京のスラム街で学校を経営していた清水保三とともに日中の架け橋的存在となった。

内山を有名にしたのは、魯迅との出会いであった。魯迅は仙台で医学を学び、後に文筆家として大陸で第一人者となる。魯迅は兄の周作人がいた北京と上海を往復していたが、共産主義に軸足を置いていたため蒋介石の国民党から危険視されていた。その魯迅が上海で頼りにしたのが内山だった。内山は大陸に関する多くの著書をものにした。

最初の「生ける支那の姿」の序文を書いたのも魯迅だった。「著者は二十年以上も支那に生活し各地方に旅行し各階級の人々と接触したのだからこんな漫文を書くに実に適当な人物であると思う」「老朋友であるから悪口も少々書き添えておきたい」「支那の優点らしいものをあまりに多く話す赴きがあるのでそれは自分の考えと反対するのである」それに対して内山は言った。「もし書いたことが中国人の優点美点であると見えるなら、従来日本に伝えられた中国人の生活は、その反対である醜いことや劣った点ばかりが伝えられて居ったと云うことになるのではあるまいか」