17歳の時、両親が住んでいたパキスタンを訪れた。イスラマバードは新首都として建設途上だった。ある日、近郊のタキシラに連れていかれた。かつてガンダーラ国があり、その首都だった。アレキサンダー大王の後裔たちが建国し仏教に帰依した。仏陀は自らの像を刻むことを禁じていたから、仏が像になることはなかったが、ギリシャ人たちは「彫刻」をこの国にすでに持ち込んでいた。

タキシラの仏教寺院は仏舎利を奉納したスツーパを中心に伽藍配置されていた。スツーパは卒塔婆や漢訳され、中国や日本で塔となった。そのスツーパの周囲には多くの彫刻が施され、仏陀の物語が語られていた。その中で仏陀は仏像として存在感を増し、寺院の崇拝の対象となっていた。

だから、最初の仏像はギリシャ人の形相をなしていた。掘り深い顔そしてウエーブのかかった頭髪。高校生の僕はまだ日本でも仏像に対する興味はなかった。しかし、タキシラで見たギリシャ風仏像は少年の心をとらえた。キリストが生まれた前後、インドでギリシャ人たちが仏教を信奉し、仏陀の像を刻んでいた事実が、その後、僕を仏教美術の世界に誘い込んでいた。

仏像を求める旅はその時始まった。奈良には年に何度も足を運んだ。奈良が仏像の宝庫であることを知った。高校の日本史にあった仏像はすべて訪ねた。

仏教はタキシラの地から、中央アジア、中国を経て日本に渡った。仏像もまたその形を変遷しながら日本で独自の発展をした。