ハイカラだった1970年のラオス

  一九七〇年から二年、青年海外協力隊員としてラオスの首都ビエンチャンで日本語を教えた桑原晨さんに東南アジアの今昔についてインタビューした。、桑原さんは七八年からアジアに特化したユニークな出版社「めこん」を経営する一方、アジア各地との交流を進めている。

 東西南北回廊の拠点

 桑原「ラオスはいまだに農業国。日本のアデランスとか外資も来ているが、自前の工業はない。輸出できるのは電力と木材ぐらいかな。人口が六〇〇万人と国として小さいのと、内陸で海がないのだが、最近、中国の雲南省やベトナムのダナンと大きな道路でつながり、東西南北回廊というか、インドシナを結ぶ交通路のすべてがラオスを通るようになった。物流の中心ということだ。経済発展に結びつくのか分からないが、少なくとも内陸国として昔マイナスだったことがいまではプラスになってきている」

 伴「タイ、ミャンマーを含めて、桑原さんが初めてアジアの地を踏んだ時から、まもなく半世紀を迎える。桑原さんの目から見たラオスの変化を語ってほしい。他の東南アジアの国々と比べてラオスが違うのは、革命があったことだ。それまで王様がいたのが、ベトナムの影響を強く受けていたパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)が首都ビエンチャンを制圧し、国王は退位を求められ、社会主義体制が成立した」

 桑原「一九七五年の革命まで、ラオスはフランスやアメリカの影響を受けていて、ある意味、ハイカラなところがあった。ビエンチャンしか知らないが、いまより賑やかだった気がする。まあ、僕らは学生時代も貧しかったから、ピザなどはラオスで初めて食べて、こんなうまいものがあるのかと思った。同僚と二人で一軒家を借りて、町中に住んでいたが、水道も電気もあり、あまり不便はなかった。歓楽街も賑やかで、サイゴンほどではないが、ベトナム戦争景気のあだ花的雰囲気があった。一方で貧しさもあった。僕らが通ったバーの女の子に住所を教えろと言ったところ、彼女は字が書けなかった。弟はお寺に丁稚に入っていた。食うために女は飲み屋に男は坊主になっていた。お寺はそんな社会のセーフティーネットだったのかもしれない。それでもラオスの印象はとにかく穏やかだった。」

 革命で一〇年以上遅れた変化

 桑原「一変させたのは、革命だ。革命政権は西側の影響を一掃しようとした。それまで外国人とつきあっていたこともマイナスになり、多くの金持ちや知識人がアメリカやフランスに逃げてしまった。今になって、当時の日本語の生徒たちを探すのが難しいのは、彼等が難民となって国外に逃げてしまったからなのだ。パテト・ラオはベトナム国境の解放区にからやってきて、西洋と関係のあった人々をはじき出してしまった。国王も解放区に連れ去られ、まもなく死んでしまった」

「八〇年代から九〇年代の前半までラオスに入るのは難しかったので、タイとの国境まで行って、メコン川ほとりのホテルに泊まって対岸のビエンチャンをよく眺めたことがあった。ラオスが変わり始めるのは九〇年代後半。ベトナムのドイモイと軌を一にしており、タイやマレーシアより一〇年以上後になった。ビエンチャン郊外に住宅地が広がり、ショッピングセンターや工業団地ができた。昔遊んだ歓楽街は道路が整備され住宅街に変貌していた。僕が住んでいた家の前にあった青空市場もビルになってしまった。人口は二倍になり、人々は確実に豊になっているが、バラックの飲み屋やバーといったいかがわしさがなくなりつつあるのは新宿ゴールデン街がすたれるのと同じ寂しさがある」

 売れているタイ語の本

 伴「帰国してから『めこん』を立ち上げた。アジアに特化した出版はいまでもめずらしい。最初はアジアの文学を紹介したいと考えたそうだが。それから一番売れた本はなんでしょう」

 桑原「最初の本は台湾の『さよなら再見』だった。協力隊に応募したのはただ外国に行きたかったからだけで、アジアに関心があったわけではない。ベトナム戦争にも反戦にも興味はなかったが、やはりラオスの二年で何かが変わったのでしょう。当時は日本の存在が大きくなり、ラオスにとっても経済発展の国というイメージがあった。現実には三井物産が出張所を置いているぐらいで、企業の進出はまだなかった。日本語を学べば、という期待もあったはずだが、革命でつながりが途切れたのは残念。めこんは一九七八年から約三〇〇冊のアジアに関する本を出版してきた。」

「今売れている本という意味では、タイ語とかベトナム語とか、アジアの語学の本。アジアの文学を読む人は全然いないし、歴史書をきっちり読もうという人も少ない。反比例して言葉だけは増えている。中でもタイ語の人気は高い。めこんでも何冊か出しているが、五〇〇〇部は越えており、多くの出版社も手がけている。タイ語は母音と子音が組み合わさった文字で音声の発音記号もあり、日本語とは成り立ちが違うにも関わらず、もはや特殊語学ではなくなっている。タイ語人口は推定で数十万人というからすごい。タイ語の次はインドネシア語、ベトナム語、タガログ語、カンボジア語、ミャンマー語と続く。これは日本だけで起きている現象のようで、みんながぺらぺらしゃべれるわけではないが、相手の国も文化を尊重するということ。日本人がアジアの言語に興味を持つことはすばらしいことだと思う」

 ラオス語の先生の母は僕の生徒だった

 桑原「僕は今でもずっとラオス語を習い続けている。去年まで教わっていたのはお茶の水女子大の留学生だった。毎年五月にラオス・フェスティバルがあり、見に行ったところ、彼女だけ、腕のしなりとかが上手だった。理由を聞くと母親がかつて舞踊団にいて、ナタシン国立舞踊学校の時代に僕の生徒だったことが分かった。当時、大阪万博が控えていて、ナタシン舞踊学校に臨時で日本語を教えに行っていた。僕は覚えるのは生徒達があまり真面目でなかったことぐらいだが、彼女の母親はしっかりと僕のことを覚えていたそうだ。さらに聞くと父親も一緒にラオスにいた同僚から隣の教室で日本語を習っていたというから奇遇である。四十数年前の僕の日本語の生徒の娘が今、日本に留学していて、僕にラオス語を教えている。革命で途絶えたと思っていた関係が今も生きているのは驚きだ」

「協力隊で何を得たかはよく分からないが、ろくでもないことも含めて間違いなくいろいろ経験させてもらった。僕らも未熟で、日常生活の中であーだ、こーだやっている間にラオスの影響を受けて、段々変わっていった。協力隊で面白いのは、現地での日常生活の中で先進国の人々が普通持っている上から目線の気持ちがなくなることだ。何かるつぼに入って溶けていくような感じがしている。メコン川は、雨期には満々と水をたたえ、乾期には流れが細り、人々は段差を降りて川底に畑をつくる。その営みは初めてメコンを見た昔と変わらない」 (霞山会広報誌Think Asiaから転載)

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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