高知に招かれたら一流
僕は4年前から、はりまや橋夜学会を毎週金曜日夜に開催している。もう116回開催したから大したものだと思っている。実は僕の母方の祖父、片岡一亀が始めたのが高知市夏季大学だった。講義は早朝6時からだった。始まったのが僕が生まれた年の昭和26年だから、夏季大学はもう67年続いていることになる。これも大したものだ。2000年7月17日の高知新聞が「夏の学び舎」という企画で夏季大学が始まった経緯を紹介している。「高知に招かれたら一流」という見出して、夏季大学の草創期の講師陣のレベルの高さを示している。
高知市夏季大学(高知市教育委員会。高知新聞社、RKC高知放送主催)がことしで五十回を迎える。昭和二十六年、高知市立中央公民館の開館に合ながらも、市民、県民の夏の学びやとして親しまれてきた。半世紀にわたるその歩みをたどり、これからの夏季大学の姿を考えてみたい。
昭和二十六年八月一日。高知市丸ノ内一丁目の同公民館で第一回夏季大学が始まった。
昭和五十二年発行の「高知市中央公民館26年史」で片岡一亀初代館長が当時を振り返っている。 「戦後まだ世相がぶつとしていた頃(ころ)に、この夏季大学の計画を発表したら、市民が非常に驚ろかれ大変賛成してくれた。そしてどの期間に、どのような方法で行なうか運営審議会などで検討した結果、市民大衆の聴ける時期として八月を、それも日曜日以外の八月中の長期講座とした。また勤めの前に受講してもらおうと朝六時開講にし、朝受講できなかった人のために夜も開講した。このような企画はまだ全国的にも珍しく中央でも注目された」
一回目は県内講師がほとんど。県知事や高知市長、県内の大学教授ら身近な顔が並んだが、二回目以降は県外にも広げていく。職後すぐの貧しい時代に始まった夏季大学ほ全国的に注目され、草創期から日本を代表する講師陣が名を連ねている。「土佐に招かれたら一流だ」といわれるほど、謂師の間でも評判になった。
朝夕二回の訓義だった当時は、早朝の講義にもかかわらず、公民館前は自転車の山。ハスの花咲くお堀端を通って、講義に向かう学生や会社員の姿が多く見られた。が、準備の方は大変だった。 「夏季大中は毎朝五時にタクシーに飛び乗って、公民館へ急ぎました。そして会場の準備。身こしらえは応接室の洗面台で顔を洗って済ましていましたね」
昭和三十六年から十二年近く館長を務めた武田次郎さん(八六)=同市入明町=は当時を悛かしむ。 「冷房のない時代でしてねえ。聴衆には氷水のサービス、講師の後ろには七、八貫目(約三十キロ)ぐらいの氷柱を立て、大きな扇風機を回し、ゆるゆると風を送ったこともありました。夕の部で使った氷は毛布で包み、翌朝まで保管していましたけど、日によっては線香のように細っていたこともありました」 こうしてスタートした高知市夏季大学。県民に支えられて成長していく。