新羅の神さまだった八幡社

 高知に帰っていろいろな発見があった。高知市の北部に「秦」いう地名があってその西に秦泉寺もある。高知県の西部地方は幡多郡という。テーマはその秦だった。宿毛市へ行くと土佐国とは別に「幡多国」があって、歴史的に九州から移り住んだ人たちが西から開発を進めたのだと解説された。高知県には「はた」に関連する地名が多いのである。

 12月1日の夜学会のテーマは「八幡社」と決めて勉強を始めた。八幡社は八幡太郎源義家が石清水八幡宮を奉ったことから全國に広まり、日本の神社8万社の半数以上が八幡様となっている。この神社が新羅由来の神さまと知ったら日本人は驚愕するだろう。八幡様の本家は大分の宇佐八幡宮である。このことは人口に膾炙している。

 だが、古代の宇佐は新羅からの移住者が定着した土地。歴史書(八幡宇佐宮御託宣集)に「辛國の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という有名な一文がある。豊前国風土記には「昔話、新羅の國の神、自ら度り到来りてこの川原に住みき、すなわち名を鹿春の神といひき」とある。現在の福岡県田川郡香春町を流れる金辺川の川原に新羅国の神が天降ったということである。新羅の人々はその後、豊前に移り、定着した。

 隋書倭国伝に608年の小野妹子の遣隋使の答礼使の記事として「竹斯国にいたり、さらにその東に秦王国がある」とある。「王国」と書いてあるのは興味深い。さらに「其人同於華夏以為夷州疑不能明也」とある。なぜ中国人が野蛮な国にいるのか不明というのだ。この時期、秦河勝が朝廷で活躍している。また大宝年間に作成された正倉院文書の豊前国の戸籍に「秦部」「勝部」とあり、700年ごろには新羅系渡来人が完全に定着していたことが分かる。

 新羅と百済が併存していた時代の前、朝鮮半島には三韓という時代があった。馬韓、辰韓などがあった。中国では秦の始皇帝の時代である。始皇帝の圧政に耐えかねた人々が朝鮮半島に逃げ込んできた。馬韓は東部の地を彼等に与え、その地が辰韓となった。辰韓では秦の言葉を使ったので、秦韓ともいわれた。

 これらは後漢書など中国の歴史書に記述がある。邪馬台国があったずっと前の歴史である。新羅つまり辰韓が中国人による国だったとすれば、多くの疑問が氷解する。

 日本書紀の記述では百済や新羅から大和の国に度々朝貢があった。その使節団の人々の名前が、新羅は中国式の姓が一字の人であるのに対して百済は万葉仮名のような表記の長い姓なのである。また白村江の戦いで唐が新羅側について大和と百済と戦った構図も分かりやすい。豊前に定着した秦氏は当時としては高度な知識を持っていたことは当然のことで、大和朝廷が宇佐の人々に一定の尊敬を持って処遇した。秦氏は自らも列島に広がったことは想像の範囲で、朝廷に招かれて高官となった人々も少なくない。

 わが土佐は西側から開発されたというのは歴史の定説。幡多郡、秦という地名も残っている。秦時代の中国からの移民が辰韓つまり新羅を経て、筑紫に渡り、豊前を経てさらに土佐にやってきたのだ。長宗我部氏が先祖を秦の始皇帝とするのはいささか乱暴だが、秦国由来の人々であるとするのは合点がいく。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
カテゴリー: 話題, 高知 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です