李舜臣(イ・スンシン=1545―1598)文禄・慶長の役で豊臣秀吉の軍勢と戦い活躍した李朝朝鮮水軍の提督。甲板を鉄板で覆った亀甲船を多用したことで日本側の艦船を苦しめたことで歴史に残り、韓国各地に顕彰する銅像や石碑があり、王室を除いて日本で知られる最も著名な朝鮮人の一人。
 京畿道豊郡の出身。漢陽(現ソウル)で生まれ、32歳にして科挙(武挙)に合格し、女直との北方国境に配備されたが、上司と衝突し、「白衣従軍」(一兵卒)となるなど苦労しながらも復活して、文禄の役の前年1591年に全羅左道水軍節度使に抜擢され、巨済島左岸で行われた玉浦海戦や釜山西方の閑山島海戦で豊臣水軍を撃破したことでその名を轟かせた。玉浦海戦では、甲板に多数の鉄の針を取り付けた亀甲船を導入、敵兵が容易に乗り込めない工夫をするなど日本側が海戦を準備しない間に、戦闘艦船を建造していたことが海戦を有利に働かせた。
 文禄の役は明軍の参戦と豊臣軍の深刻な兵糧不足で一進一退となり、休戦状態になったが、李舜臣は慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(海軍司令長官)に昇進した。しかし、秀吉による再出兵の直前に元の上司であった元均が李舜臣を陥れ、獄につながれた後、再び白衣従軍となった。
 慶長の役で、元均率いる朝鮮水軍は漆川梁で豊臣水軍に大敗し、朝鮮水軍はほぼ壊滅し、元均も戦死した。李舜臣は再び請われて三道水軍統制使の地位につき水軍を立て直し、残った13隻で133隻の豊臣水軍と珍島の鳴梁海峡で合戦、潮流の変わり目を利用して奇跡的に大軍勢をしのいだ。
 翌年の蔚山倭城をめぐる順天の戦いでは、朝鮮・明連合軍は城を守る小西行長を陸と海から挟撃し一時戦いを有利に進めたものの、戦闘の長期化により厭戦気分が蔓延して蔚山倭城を落とすことができなかった。
 秀吉の死によって、日本側は朝鮮からの撤兵を決定。明との和議を成立させた小西行長らは海路を撤退しようとしたが、露梁海峡で待ち受けていたのは再び李舜臣らの朝鮮・明連合水軍だった。慶長の役で最後の海戦となった露梁海戦は朝鮮側の資料では勝利となっているが、明、朝鮮とも多くの将官が戦死した一方で、小西行長らは無事本国に帰還している。 この露梁海戦で李舜臣は「大敗した豊臣軍を追撃中に」「流れ弾に当たって」戦死したとされる。
 李舜臣の一生は53年と短かったが、秀吉による朝鮮出兵のために生まれて来たような生涯だった。李氏朝鮮は両班による文民統治でほとんど戦争はなく、水軍の実力も未知数だった。一方の日本は戦国時代に各地の水軍が割拠し戦況の雌雄を決する場面もあるなど戦力・戦術的には朝鮮を数段上回っていたことは確かだった。
 そんな時代に李氏朝鮮は李舜臣という逸材を得て、豊臣水軍と互角以上の戦いを進めたといえよう。日露戦争の日本海海戦でロシア海軍を壊滅させた東郷平八郎が戦略家としての李舜臣に傾倒していたという説もあり、日本においても李舜臣はあっぱれな海将として名を残したとしても不思議ではない。(萬晩報主宰 伴武澄)