エミリオ・アギナルド(1869 – 1964)フィリピンのスペイン統治時代に革命軍を組織し、米西戦争後は日本の協力を受けて反米闘争を続け、1898年、フィリピン共和国を宣言し、初代大統領に就任した。しかし、独立の英雄の一人ながら、その後にアメリカに降伏するなど毀誉褒貶の生涯を過ごした。
マニラ南西のカビテ州のカウイト町長の子として生まれ、豊かな幼少期を送り、25歳にして町長を引き継いだ。1890年代に誕生した秘密組織カティプナンに参加し、カティプナン党を中心とした独立のための武力闘争が始まり、その中で頭角を現わした。一時はカビテ州を武力解放するなどスペイン側に攻勢をかけた時期もあったが、スペインの増軍によって山岳地に入ってのゲリラ活動が続いた。

1897年、スペインと和平を結び、カティプナン党の仲間は香港に亡命を余儀なくされたが、翌年、キューバでの米艦船撃沈事件を契機にアメリカとスペインが戦争に突入、米アジア艦隊のヂューイ提督とフィリピン独立の確約を取り付け、フィリピンに戻って独立運動を再開し、6月12日、独立を宣言した。しかし、フィリピンに上陸した八万の米軍はカティプナン党のマニラ入場を拒否し、アギナルドらはブラカン州マロロスに移り、革命会議を開催してマロロス憲法を制定、1899年1月、アギナルドは大統領に就任した。

アギナルドは来たるべきアメリカとの戦争のため、側近のマリアン・ポンセを日本側に送り、武器調達の交渉を重ねた。アメリカによるフィリピン領有を嫌った陸軍は多くの退役軍人や民間人を義勇軍として革命政権に送り込み、軍事的支援を行った。日本政府はアメリカへの配慮から武器供与に反対したが、川上操六参謀総長と犬養毅や、宮崎滔天らの協力によって旧式モーゼル銃と弾薬の調達に成功し、布引丸に積み込んだ。しかし、布引丸はフィリピンへの航海途上、颱風に遭遇し沈没し革命軍による日本からの武器調達計画は水泡に帰した。

1899年2月、パリ条約でアメリカによるフィリピン領有が確定したため、アギナルドらは反発し、アメリカに対して宣戦布告した。八万の米軍に対抗してカティプナン党らの戦闘は3年5カ月続き、20万人以上の犠牲者を出して終結した。戦闘の途中、アギナルドは米軍の捕虜となり、フィリピンの反植民地闘争は終焉を迎える。アギナルドはアメリカに降伏したが、共に戦ったリカルテ将軍とマビニ首相はアメリカへの忠誠を拒否したため、国外追放となった。

日清戦争をようやく終結させたばかりの日本では、列強による植民地支配に対する対抗意識から、アメリカと戦うフィリピン人への共感が高まり、山田美妙が『あぎなるど』を出版するなどフィリピンを題材とした物語が刊行された。

アギナルドはその後、故郷に帰って年金生活を送っていたが、第二次大戦でアメリカがフィリピンを奪還した時、対日協力者として再び逮捕された。

1962年、皇太子殿下、妃殿下がフィリピンを訪問した時には高齢にもかかわらず病院からカビテの自宅に戻り、両殿下を自宅で迎え、戦争で悪化したフィリピンと日本の融和のために尽くした。(萬晩報主宰 伴 武澄)