人物往来 ベトナム独立の父、ホー・チ・ミン
ホー・チ・ミン(胡志明1890-1969)ホーおじさんと慕われたベトナム独立運動の指導者。主にコミンテルンの元で海外から民族解放運動を指導していたが、1941年、ハノイに戻り、日本が第二次大戦で敗戦した政治空白を利用、民主勢力を糾合して1945年9月2日、独立を宣言した。しかし、フランスの植民地支配の復活とアメリカの関与によって30年の独立戦争を余儀なくされた。1975年のアメリカ軍の撤退のよる南北統一を待たずに亡くなった。
ベトナム中部のゲアン省で貧しい儒学者の子として生まれた。本名はグエン・シン・クン(阮生恭)。父親の影響で漢籍を学び、日本に学べの「東遊運動」(トンズー)を起こしたファン・ボイ・チャウが父親の所によく遊びにきていたという。21歳の時、フランス船のコック見習いとして国外に脱出。船員やコックとして生きたが、1917年のロシア革命に影響を得てパリに渡り、グエン・アイ・クォック(阮愛国)の名で独立運動家として頭角を現した。第一次大戦後のパリ講和会議では植民地ベトナム人のフランス人と同様の基本的人権を要求する嘆願書を提出し、1921年、フランス共産党が成立するとともに共産党員となった。
その後、モスクワに行くが民族解放を重視するホー・チ・ミンの政治姿勢はコミンテルンでは受け入れられず悶々とした日々を送った。しかし1930年、香港でベトナムにあったいくつかの共産主義組織を糾合してベトナム共産党を創設、香港、延安、モスクワを行き来しながら祖国の独立の熟成する時期を待った。
情勢が急展開したのは1941年。ナチスドイツに敗れたフランスでビシー政権が成立、直ちに日本軍が北ベトナムに進駐するが、植民地ベトナムで力の空白が生じた。ホー・チ・ミンはその時期を逃さなかった。30年ぶりに祖国に帰国し、祖国独立のため統一戦線(ベトミン)を結成、武装闘争を開始した。ホー・チ・ミンの名はその時以来用いられた。第二次大戦での日本の敗北はホー・チ・ミンにとって決定的チャンスとなった。敗戦の翌日の8月16日を期してハノイで8月革命が始まり、ベトミンは瞬く間にベトナム全土を掌握。9月2日には独立を宣言した。日本軍によって擁立されていたバオ・ダイ帝は退位した。
しかし、フランスはベトナムの独立を認めず、ホー・チ・ミンらはフランス軍への徹底抗戦を敢行した。多くの犠牲を伴いながら1954年、ついにフランス軍を撃破しジュネーブ協定を締結したが、その後、アメリカが親米政権をベトナム共和国を南部につくったため、ベトナムは再び戦乱の地となった。ホー・チ・ミンはすでに政権の実権を失っていたが、高潔な人格と慈愛に満ちた風貌によって、世界の民族解放運動の象徴ともいえる存在となった。
1970年代、ベトナムの民族解放運動に対する共感が世界の若者に広がった。ホー・チ・ミンの人格なかりせば、と思わせるものがある。(萬晩報主宰 伴 武澄)