2月19日(金)午後7時

場所ははりまや橋商店街「めろでぃー」

戦争が終わるまで、北京の朝陽門外に日本人牧師が経営する崇貞学園という学校があった。かつて、朝陽門は北京の東の果てで、揚子江からの運河が北上して北京に物資を運ぶ水運の拠点だった。人の往来が多きことから、多くの孤児たちが捨てられ暮らしていた。その悲惨な状況に義を感じたのが、日本人の牧師だった。名を清水安三といった。彼はまず孤児たちを世話する孤児院を経営し、子どもたちに手に職をつけさせるため、縫製や手芸を教えた。やがて孤児以外の子どもたちもその職業訓練所に通うようになり、学校となった。清水安三が孤児の世話を始めたことは1910年代の後半だった。日本が突きつけた対華21カ条要求が受け入れられて、全国的な反日暴動が起きていた。だが清水の行動は北京の知識人たちに受け入れられていた。おかげで北京大学の総長の胡適、共産党の創始者李大釗、作家の周作人、魯迅兄弟などトップレベルとのつきあいがあった。戦争が終わって共産党が学校を接収し、清水安三は帰国を余儀なくされた。帰国後、清水安三はお茶の水で賀川豊彦に出会った。清水は日本でも学校経営を目指していたが、あてがあったわけではない。賀川に相談するとその場で、ある財界人が持っていた町田市の屋敷があてがわれ、後に賀川が買収して学校に寄付した。今の桜美林学園である。今、崇貞学園は陳経綸中学と名を変えて経営されている。2005年に清水安三の偉業を顕彰するために校庭に胸像が建てられた。反日暴動が盛んな中だったが、胸像について反対はなかった。