徳島で幼少年期を過ごした社会運動家・賀川豊彦(1888-1960年)を通して平和を考える講演会が、鳴門市賀川豊彦記念館であった。NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会の主宰。元共同通信社記者で国際平和協会会長の伴 武澄さんが「死線を越えて-賀川豊彦の平和論」と題し、賀川が描いた理想や平和のあり方などについて話した。用事は次の通り(撫養佳孝)

 賀川豊彦との出会いは自分にとって大きな転機だった。それまでは日本も普通の国家になるべきで、普通の国家が戦うのは当たり前。国民が戦場へ行くのは義務のようにもっていた。それが賀川との出会いによって、ちょっと違うと思うようになった。
 賀川との出会いは15年前に「世界国家」という雑誌をよんだことにさかのぼる。賀川豊彦が10年ぐらいにわたって精魂込めてつくった雑誌で、読み始めると、すごいことがいっぱい書いてある。当時、世界連邦を作らなくてはいけないという使命感の下に国際平和協会が動き出し、各自治体に世界連邦を支持するという声が立ち上がる。その動きはアメ リカやヨーロッパでも広まる。何百何と云う人が死んでいった悲惨な戦争、特に広島と長崎に落とされた原爆に対し、こういうことが続けば世界は破滅するとい う危機感が世界中にあったことを、この本が思い起こさせてくれた。 

 「少年平和読本」は1950年代に、この雑誌から抜粋した子ども向けの本で、 ここに「憲法9条は戦争破壊の十字軍」という表現をみつけた。「たとえ戦争の今日がせまっても、あくまで戦争放棄の旗印をまいてはならない。人類の救いの ために、われわれが鉄砲一丁ももたぬ丸腰のママ、地球の一角に立ちつづけなければならない」という覚悟。敵が来たらどうするんだとよく言われる。妻や子ど もは守る。でも撃たれても相手は撃たないというのが賀川に姿勢だろう、壮絶な覚悟だと言わざるを得ない。

 賀川は徳島の中学時代、擲られても軍事訓練をしなかった。神戸の貧民窟に入ってからも、脅迫をいけたり、刀で切りつけられたりしたが、抵抗しないどころか警察に訴えない。こういう人だからこそ「丸腰のママ」とtぽい言葉も説得力があるのだろう。

 この本に引きつけられるのは、弱い人が助け合う、弱くても生きていけると勇気を与えてくれる物語がたくだん入っていること。ぜひ皆さんに読んでほしい。

 ドイツとフランスは200年にわたって争い、石炭と鉄のある地域をめぐり何度も国境が変わった。その争いをやめて国際管理しようと言った人がいる。フランスの外相シューマンだ。これが今のEUの原点になる。

  いち早くそのすごさに気づいたのが賀川豊彦で、第一報を聞いたとき、ヨーロッパに国境なき時代が来ると言っている。70年代後半、当時はECであったが、 その議長が日本人に向けて送ったメッセージに、ECの根底に賀川イズムが流れていると書かれたいた。どうしてだろうか。

 1936年に賀川はアメ リカのロチェスター大学で講演し、12月に「ブラザーフッド・エコノミクス」と題して出版された。資本主義でも共産主義でもない第三の道を歩んでいくべき だと提唱した本で、刊行後すぐ20カ国語ぐらいに翻訳されている。この本が背景にあったと考えておかしくない。EUの根底には日本人の血が流れていると言 える。

 今われわれは何をすべきか。日本を戦争ができる国にしたいという勢力がいて、それは少数ではない。

日本が戦争できる国になれば抑止力は高まるが、相手も力を必ず高める。どこかで止めなくてはいけない。今止められなくとも次の内閣、次の次の内閣で廃止することはできる。安保法制を危ぶむ思いを決して忘れないでほしい。