先週5月20日、僕は金沢市にいた。22日にある会議に出席するためだが、スケジュールの関係で2日前に金沢入りした。武家屋敷の観光を終えてさて、どこに行こうか迷った。数年前に訪ねたふるさと偉人館に行ったところ、たまたま桐生悠々展を開催していた。まさに時宜を得た展覧会だった。

 桐生悠々は反骨のジャーナリストとして名を馳せているが、彼の名前を後世に残すきっかけとなったのは、信濃毎日新聞の主筆だった1934年の社説「関東防空大演習を嗤う」だった。時代は満州事変を経て日本が国際連盟を脱退するまで追い込まれていた。「関東に敵機を迎え撃つということは敗北そのものである」と当たり前のことを書いた。そのことだけで陸軍の憲兵ににらまれ、信濃毎日を追われることになった。

 桐生悠々が晩年、生活の糧としていた雑誌「他山の石」で次のように書いていた。

 私は言いたいことを言っているのではない。徒らに言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言はねばならぬことを、国民として、特に、この非常 時に際して、しかも国家の将来に対して真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならぬことを言っているのだ。
 言いたいことを出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが言わねばならないことを言うのは、愉快ではなく、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならぬことを言うのは義務の履行だからである。

 桐生悠々についてはかつて萬晩報に書いたこともある。ファンの一人ではあったが、金沢市の出身だったことは知らなかった。いま日本は安保法制の大きな岐路を迎えている。安倍晋三首相は日本を「戦争のできる国」にしようとしている。安倍政権の安保法制を嗤いたい。

 そして国会でトンチンカンな議論が進んでいる。

 安倍首相は戦闘地域から日本人を避難させるため航行している米国艦船が攻撃された場合、どうするか、ほっておけないだろうと言う。そもそも戦争が始まった時に他国の民間人を救出することなど普通の国の軍隊ではあり得ないことである。

 あり得ない想定で、憲法で禁止された集団的自衛権を認めさせようとするところに無理がある。国民の多くが安倍首相の意図を疑うのは当然のことであろう。

 本当は同盟国アメリカが困った時に日本も軍事的な支援ができるようにしたいのだと思っている。議論の中で自衛隊を戦闘地域に派遣することはないと言っているが、そもそもそんな腰抜けの自衛隊などアメリカだって欲しくはないはずである。

 野党の議論もトンチンカンである。万が一、日本にどこかの国が戦争を仕掛けてきた場合、自衛隊は日本を守る義務がある。自衛官のリスクが増すなどという議論は笑止ものである。そもそも自衛隊に入ることは生命のリスクをかけることなのだ。

 もっと根源論を言わせて貰えば、戦争という行為は一国の国内法ではとらえきれないものではないのか。国を守るのは国民の当然の義務であり、戦時下においては国民の基本的人権を含めてあらゆる権利が制限されると考えなければならない。

 そして言論は真っ先に戦争を鼓舞するものなのだ。戦うのは自衛隊だけではない。国民が一丸となって戦わなければ戦争に負けてしまう。非常時に国民の権利を主張するような言論機関は逆に国民の信頼を失うだけだ。

 一方、どこかの国が戦争を仕掛けてきても白旗を上げるというのであれば、まず自衛隊はいらない。戦わない覚悟の背景には、主権を失うという覚悟がなければならない。主権を失った国民に自由も何もない。

 国会の議論にはそんな単純な戦争論すら展開されていない。安倍首相は「戦闘地域に自衛隊を派遣しない」というし、野党は「自衛官のリスクが増す」という。

 過去の歴史で侵略戦争などは一切ない。みんな自衛のための戦争だった。もちろん敗戦国側は「侵略」のレッテルを貼られるが、すべては国を守ることから戦争は始まるという教訓をかみしめたい。