2008年05月24日(土)萬晩報通信員 園田 義明

第四章 長州・浄土真宗西本願寺派連合と国家神道

 仏教界から生まれた「国家神道」

 なんとも不思議なことに日本人のクスノキ信仰は楠木正成信仰へと変貌を遂げる。明治維新前夜に蘇った楠木正成ら南朝忠臣たち。彼らを神格化したかのような南朝正統イデオロギーが日本を戦争へと導いていく。この様子を「国家神道」の成立過程から見ていくことにしよう。

 そもそも神社=神道ではない。神道とは古来、日本人の血や日々の生活の中に長い年月をかけてじっくり染みついたものであり、自然崇拝に見られるように宗教というより民俗的信仰に近いものだった。よって、日本人それぞれの神道観があっていいのではないだろうか。そのために八百万の神々もいる。勝手な解釈でも成り立つ大らかさこそが魅力であり、その曖昧さに限界があった。

 明治維新後、政府は神道国教化とその挫折を通じて「国家神道」への道を歩むことになるが、いずれも非宗教化された政治の領域の問題であって、神道国教化=神道でもなければ国家神道=神道でもない。さらには、神道国教化や国家神道を、神道界が歓迎したともいえない。

 一般的に、明治維新から第二次世界大戦に至る過程で、神道が国家から特別な地位を与えられ、優遇されていたように思い込んでいる人も多いようだが、これは事実に反する。このあたり、左翼さんやリベラルさんももう少し勉強して欲しい。

 明治憲法でも「信教の自由」は保障されており、このため、国家神道も「神道非宗教論」が前提になっていた。戦前では靖国神社参拝でさえ愛国心と忠誠を表すだけのものに過ぎず、宗教的慣行ではなかったのである。

 米欧にはキリスト教という機軸があるが、日本では仏教も神道もそんな力は有していなかった。そもそも、明治初期の日本には「宗教」という概念すら存在しなかった。そのために、天皇の求心力を活用した国民全体の紐帯として、神道が利用されたのだ。

  明治政府による神社政策は一八六八(明治初)年の神仏分離令に始まり、一八七一年の神社改正規則以後、全国の神社は官社(官幣社、国幣社)、府県社、郷 社、村社、無格社からなる五段階に序列される。神社の氏子調規則や郷社定則を戸籍法と連携させながら、廃藩置県を後押しするために中央集権的な神社システ ムの再編が国家主導で行われた。

 やがて、不思議なことに極めて仏教的な「空なる国家神道」が生み出される。非宗教という「空」は、ブ ラックホールのようにありとあらゆるものを吸い込んでいく。神道であれ仏教であれ儒教であれキリスト教であれ、さらには政治、軍閥、財閥、そして日本国民 のほぼ全員をパクパク飲み込んでいった。

 この背景には宗教界の対立があった。特に重要なのは、当時、鬱積した不満を募らせていた仏教界の存在である。神道と仏教が激しく対立していく過程で、日本を「空」の状態に陥れたのだ。

長州・浄土真宗西本願寺派連合二五〇年の怨念

  明治維新政府が進めた廃仏毀釈や神道国教化政策などの宗教政策に対し、正面から敢然と立ち向かったのが浄土真宗西本願寺派の島地黙雷である。神道と仏教と の対立構図から、島地によって神道非宗教論が生み落とされた。この島地に大洲鉄然、赤松連城、香川葆晃を加えた長州出身四人は、「仏教界を守った維新四 僧」と称されることもある。

 さらに、この長州と西本願寺との関係はなんと戦国時代にまでさかのぼることができる。 

  戦国時代終期、石山本願寺は親鸞に始まる一向宗の系譜を継ぎながら、宗教的権威と政治的権威を併せ持つ一大王国と化していた。織田信長の天下統一の野望に 最も頑強に抵抗し、一五七〇(元亀元)年から始まる石山合戦は十一年に及ぶ。この戦いで中国地方の覇者、毛利輝元は石山本願寺に加勢して、兵糧や弾薬の援 助などを行った。

 その後、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、現在の 京都市下京区 に再興、浄土真宗本願寺派大本山の西本願寺となるが、寺内対立から真宗大谷派総本山の東本願寺が分裂する。東本願寺は寺地を徳川家康から寄進されて以来、幕府との関係が密になる。

  そして、ご存じ一六〇〇(慶長五)年は関ヶ原の戦い。東軍の総大将は徳川家康、対する西軍の総大将は安芸一二〇万石の大名・毛利輝元。この時、毛利軍内部 に東軍への内通者・吉川広家がいたことはよく知られている。合戦後、毛利家はお家断絶こそ免れたものの、長門・周防三七万石に減封された。しかし、長州藩 主毛利家と西本願寺の関係は江戸時代も続く。

 そして、関ヶ原の戦い以来二五〇年にわたる幕府への怨念と屈辱を晴らすかのように、長州は討幕へと動く。この時、長州と西本願寺派の歴史的信頼関係が強固な同盟となって復活するのだ。

  西本願寺派は討幕運動に大規模な資金提供を行った。井上聞多(井上馨)、久坂玄瑞、桂小五郎(木戸孝允)ら尊皇攘夷派が密かに集まって「翠紅館会議」が行 われた翠紅館は西本願寺の別邸であり、さらに一八六四(元治元)年の「禁門の変」では、誰もが長州を見捨てる中で、西本願寺のみ敗残兵を匿って無事脱出さ せたことは、皆さん「新撰組」でよくご存じのはず。 

 この中に、後に維新の元勲となる山田顕義、そして、平田東助と共に長州・山県有朋閥を支えた品川弥二郎の姿があった。

島地黙雷と山田顕義の「神道非宗教化戦略」

  島地黙雷は周防国(現・山口県)佐波郡にあった西本願寺の末寺、専照寺四男として一八三八(天保九)年に生まれる。一八六六(慶応二)年に妙誓寺の住職と なり島地姓を名のるが、同年大洲鉄然と共に改正局という学校を萩に設け、真宗僧徒子弟を教育した。そして、一八六八(明治元)年に、赤松連城らと本山・西 本願寺の封建体制の改革を提唱し、歴史の表舞台に登場してくる。

 ここからはもう一人、葦津珍彦に登場していただこう。葦津は創刊した神 社新報で神道擁護を訴え、戦後唯一の神道思想家と呼ばれた。神職なら誰もが尊敬する「神道の弁護人」と評された人物である。葦津の残した『国家神道とは何 だったのか』の副題には「現代史通説の虚像を論破する」とある。この書には長州の名がこれでもかというくらい頻繁に登場する。

 この『国家神道とは何だったのか』を中心に、末木文美士の『明治思想家論』、千田智子の『森と建築の空間史』などで補足しながら、当時を振り返っていきたい。

  島地は京都に上って本山でその才幹を認められるようになる。対政府への進言で注目すべきは一八七一(明治四)年の「教部省開設請願書」。ここで島地は、維 新政府が「妖教」(キリスト教)の害を防衛すべく神道儒教の徒をして宣教活動しているが、効果が上がっていないと指摘、政府は仏僧を督励する官を設けて、 宣教活動を強化しろと主張した。キリスト教を共通の敵として三教合同で結束させることで、仏教を体制側に組み込む狙いがあった。

 長州に つながる浄土真宗の発言力は強大であり、島地の請願を受け入れるかたちで、設けたばかりの神祇省は廃止されることになり、新たに教部省が設置される。神・ 儒・仏の三教合同の教導政策が打ち出されたのである。そして、その直後に宣教の大綱領ともいえる「三条の教則」が起草される。

 仏教界は仏教単独の教育機関として大教院設置を要望。そして設置はされるものの、でき上がってみると神仏合同の宣教機関のような存在になってしまう。依然として神道優位は変わらず、これが新たな神仏対立の火種につながっていく。

  島地は、西本願寺から派遣された宗教事情視察団員として、岩倉具視率いる遣外使節団に遅れて合流する。この旅先で島地は木戸孝允らと親交を深めることにな る。この外遊中に、教部省が依然として神道優位であることを知った島地は激怒、旅先から「三条教則批判建白書」を提出した。

 政教分離を強く主張しながら、「三条の教則」の第一条に言及する。第一条は「敬神愛国の旨を体すべき事」となっていたが、島地は「敬神」と「愛国」を分けた上で、敬神とは宗教、愛国とは政治を指すとしながら、これらが混合している不合理を強く批判したのだ。

そして、西欧仕込みの宗教進化論を振りかざして、八百万を崇拝する神道に批判の鉾先を向けていくのである。

 一八七三(明治六)年に帰国した島地は、直ちに「大教院分離建白書」などで教部省、大教院への批判を開始する。この時の島地の「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」とする言説から、葦津は三類型の対神道戦略を見出す。

  その内容は、まず皇室の神道、惟神の道は宗教ではなく、政令、治教であり、皇室はその祭祀を司る権威を有するものとしながら、まずは皇室のメンツを保つ。 第二に水戸学、本居平田学を皇室国家神道とは全く異なる一私人、一私閥の偏見とする。神道が皇室と切断されればものの数ではないと考えたのだ。第三に、皇 室と無縁の地方神社の如きは未開原始のアニミズム・シャーマニズムであり、今後の文明時代の宗教に値しない邪教迷信の類に過ぎないとした。この結果、一八 七五(明治八)年に大教院が解散、七七年には教部省も解散することになる。

 そしてこの後に山田顕義が登場する。日本法律学校(現・日本大学)を創立者として知られる山田は、吉田松陰の松下村塾に学び、「禁門の変」に参加、戊辰戦争では東征大総督参謀、箱館五稜郭の榎本武揚征討では陸海軍総参謀として従軍した。

 山田もまた岩倉具視遣外使節団に理事官として随行し、帰国後、東京鎮台司令官などを経て、佐賀の乱を鎮定、西南戦争では別動隊第二旅団司令官として熊本で活躍し、陸軍中将を経て司法卿、司法大臣などを歴任する。

  この山田が内務卿に就任するのが一八八一(明治十四)年。すぐさま神官と教導職を分離し、神官の宗教活動、神道葬儀の執行を禁止する内務省達を発する。さ らに一八八四(明治十七)年には教導職制度自体が廃止される。この法令は「神官は宗教家であるべきではない」との政府見解を表明したものであり、葦津は 「島地黙雷以来の真宗の政治工作の成果であったことは明らか」と書いている。

 こうして、山田内務卿時代から「神道非宗教論」が政府見解となり、第二次世界大戦まで引き継がれることになる。

  重要な点は、神道側も神道非宗教論を受け入れたことである。この背景を千田は「信教自由、議会政治の時代に入り、神道は苦境に立たされていた。そこで、祭 祀と宗教を分離することで、国家的地位を維持できるならば、その道を選ぶという意見が優勢になっていた」と書いている(『森と建築の空間史』千田智子、東 信堂)。

国家神道とは楠木正成と見つけたり!

 結論から言えば、「空なる国家神道」は長州・浄土真宗西本願寺派連合から生み落とされたのである。しかも、その実態は宗教なき幻想に過ぎなかった。

  末木は「島地による宗教自由の確立は、その裏で非宗教である国家神道をそのまま承認することになる」としながら、「神仏が分離しながら、仏教と神道が相互 に役割を分けて共存し合う関係」を「神仏補完」と定義している。その上で「島地らの勝利は、実質的には天皇国家と国家神道の枠の中に宗教が取り籠められた と言う意味で、宗教の敗北でもあった」と指摘する(『日本宗教史』末木文美士、岩波書店)。

 新田均は『「現人神」「国家神道」という幻 想』の中で、当然島地にも注目しつつ、「国家神道」および「現人神」の生みの親である加藤玄智が真宗寺院出身で、神道を宗教と主張していたにもかかわら ず、自らの葬式は真宗方式で行うよう遺言していたことを示しながら、「国家神道あるところに浄土真宗あり!」との見出しをつけて、「国家神道」の主要な論 理である「神社非宗教」と「現人神」、さらに全体像としての「国家神道」は、すべて真宗関係者によって創られたものであると断じている。

  そして、浄土真宗こそ「国家神道の創作者」であるという主張が成り立つとしながら、「国家神道とは浄土真宗と見つけたり!」と叫ぶ。さらに、戦争との関係 に焦点を絞れば、「国家神道」とはまさしく「浄土真宗」のことである。「国家神道」の実態を見れば、それを『国家真宗』と言い換えていささかも問題はない と言い切った。

 新田の調査によれば、「現人神」も「八紘一宇」も昭和十年代になって初めて教科書に登場するという。新田の主張は的を射 ているのだが、調査対象にはどうも偏りが見られるようだ。南朝に尽くした忠臣である北畠親房の「神の国」に言及してはいるものの、当時の教科書に堂々と取 り上げられていた肝心な祭神を完全に見落としている。

 国家神道あるところ、確かに浄土真宗があった。しかし、その実体は「空なる国家神道」でしかなかった。

 神道と仏教が激しく対立していく過程で生まれた非宗教という「空」は、とんでもない祭神を招き入れることになる。

 未開原始のアニミズム・シャーマニズム、さらには文明時代の宗教に値しない邪教迷信の類と名指しされたクスノキの巨樹が、自身の魅力と限界を知りつつ、樟脳利権にまみれた神社合祀によって、黙して伐り倒されていく。

 その時上空では、馬にまたがった楠木正成が、八百万信仰を象徴したクスノキの受難を見つめながら、旋回を繰り返していた。庶民の熱烈歓迎の中、「空」めがけて着地態勢に入っていた。

 そして、南朝正統イデオロギーを日本に植え付けた黒幕こそが、あの山県”ブルブル”有朋なのだ。(つづく)