2008年05月20日(火)萬晩報通信員 園田 義明

第三章 「金の生る木」に群がる山師たち

 「樟脳専売」のための神社合祀

 一九〇三(明治三十六)年五月、桂太郎内閣時代に、大蔵大臣が内務、農商務両大臣の連署をもって第一八臨時議会にある法案を提出した。この法案は可決され、翌月六月十六日に公布、十月から施行されることになる。

 この法案には四名の名前が記されており、ここにはっきりと神社合祀を強行した平田東助の名前が刻まれている。

  総理大臣  伯爵 桂 太郎 陸相、陸軍大臣、内大臣等歴任後に公爵  
  内務大臣  男爵 内海忠勝 長崎、兵庫、神奈川、大阪、京都各知事、会計検査院長歴任  
  農商務大臣    平田東助 後に伯爵
  大蔵大臣  男爵 曾根荒助 法相、農商務相、枢密顧問官歴任、後に子爵

  この四名の出生地を紹介しておこう。

  総理大臣  桂太郎  門国萩城下平安古町(山口県萩市)
  内務大臣  内海忠勝 周防国吉敷郡吉敷村(山口県山口市)
  農商務大臣 平田東助 出羽国米沢(山形県米沢市)
  大蔵大臣  曾根荒助 長門国萩(山口県萩市)

 こうしてみれば、この法案が長州閥の長州政権によってできたものであることがわかる。 

 この法案は「粗製樟脳、樟脳油専売法」であり、以後内地および台湾共通の樟脳専売法として樟脳事業は完全に政府に統制されることになる。

 専売事業は明治の日本資本主義の開花期にあって、一八九八(明治三十一)年の葉煙草専売法を始めとして、一九〇三年に内台共通の樟脳専売法、一九〇五年の塩専売法としてそれぞれ創始されている。

 樟脳専売制度は一八九九(明治三十二)年八月に台湾で先行して始められた。日清戦争による台湾領有を機に、清国統治時代の手法を受け継ぐ形で開始されたのだが、内地の樟脳事業は自由放任であったために台湾専売と競合。財政収入が安定しないという問題が発生していた。

 この問題解決と内地樟脳事業の保護育成のために内台共通の樟脳専売法が生まれ落ちる。わかりやすいように年表に置き換えてみよう。

 元禄年間(1688-1703) 薩摩藩に製脳業興る
 正徳年間(1711-1715) 薩摩藩において樟脳専売制施行
 1752年(宝暦二年)   土佐に樟脳業興る
 1863年(清国同治二年) 清国政府、台湾に最初の樟脳専売制を布く
 1895五年(明治28年) 日清戦役の結果、台湾島が日本の領土となる
 1899年(明治32年) 台湾樟脳専売制施行、内地でクスノキ大面積一斉造林始まる
 1900年(明治33年) 英商サミユル商会が台湾産粗製樟脳の一手販売人に指名
 1901年(明治35年) ★第一次桂内閣発足、平田東助農商務大臣就任
 1903年(明治36年) ★内台共通樟脳専売法案提案可決
 1906年(明治39年) ★第一次西園寺内閣発足、原敬内務大臣就任、
              ★神社合祀令
 1907年(明治40年) 外国売は三井物産に対し委託販売命令書公布
 1908年(明治41年) 第二次桂内閣発足、平田東助内務大臣就任
             三井物産に対し台湾産樟脳海外委託販売命令書発布
1911年(明治44年)  第二次西園寺内閣発足、原敬内務大臣就任 
1917年(大正06年)  三井、鈴木両社中心に台湾精製樟脳会社発足
1962年(昭和37年)  ★合成樟脳普及により専売制廃止
(日本専売公社発行『樟脳専賣史』、『しょう脳専賣史(続)』より)

 この年表から明らかになるのは、神社合祀は樟脳専売事業と大きく関係し、その両方を推し進めた当事者こそが平田東助だったことだ。理由は簡単、樟脳がクスノキから得られるということと、このクスノキが神社周辺に残っていたからだ。

 つまり、樟脳を得るための神社合祀だったのだ。

 そして、『樟脳専賣史』には、日本の樟脳業界最大の殊勲者である金子直吉の鈴木商店が一九二七(昭和二)年四月に破綻すると、鈴木商店の台湾での樟脳利権が三井物産一社に引き継がれたことがはっきり書かれている。

 長州閥、山県閥の中心に位置した平田東助こそが今でいうクスノキ族、あるいは樟脳族として神社合祀を強行し、その利権を三井へと誘導したのである。

樟脳の世界需要の七~八割を日本が占める

 樟脳がなぜ重要だったのか。

  まだ合成樟脳などがなかった当時、樟脳はクスノキから得るしか方法がなかった。樟脳はチップ状に削ったクスノキを蒸して成分を蒸留した後、蒸気を冷却して 結晶を圧縮、精油を絞って完成する。樟脳は防虫剤に使われ、眼鏡のフレームや、おもちゃなどセルロイド製品に加工され、精油は打ち身やねんざの塗り薬とし て使われた。

 当時の世界の粗製樟脳需要は五〇〇万~六〇〇万斤程度。この内、米独二国の需要が一五〇万斤、英国一〇〇万斤、フランス九 〇万斤、インド七〇万~八〇万斤、内地が一二万~一五万斤であった。需要の七割がセルロイド原料として使われ、米国では映画や写真のフィルムの材料にも使 われており、日本の樟脳がハリウッド映画の発展に寄与していた。

 高まる世界需要に合わせて、内地樟脳の輸出は台湾専売が始まる明治三十二年から盛んとなり、明治三十三年には三〇〇万斤を突破。さらに明治三十四年、三十五年は四〇〇万斤前後にまで達した。つまり、世界需要の七~八割を日本が占めていたことになる。

 『樟脳専賣史』によれば、明治初年から明治二十年頃までは百斤当たり一三~一四円だった樟脳が、明治二十四年頃には三倍以上の四〇円前後に、さらに内地にも樟脳専売制が施かれる三六年頃には九〇円にまではねあがる。

 クスノキがまさに「金の生る木」になっていた。  

  このため、内地樟脳業者は原料獲得に狂奔し、神社仏閣の風致木でさえ法外な高値で取り引きされたという。クスノキの濫伐の影響から、明治二十年前後には主 要産地であった土佐などは減産の傾向を示し、鹿児島県下では国有林の盗伐まで発生する有り様で、製造者は三二〇〇名にも達した。

三重と和歌山に群がる山師たち

『樟脳専賣史』に収められている「くすの生育地帯」を見れば、三重県や和歌山県の神社が激減した理由がわかる。

 クスノキが生育する西南日本で、神戸港に近く、しかも樟脳業が発展していなかったために、クスノキが手つかずのままとなっていた和歌山や三重の鎮守の森には、さぞかし一攫千金を狙った山師が殺到したことであろう。

 というのも、輸出のほとんどすべてが神戸港に集中していたからだ。輸出業者は神戸や大阪に店舗を構え、その大手として鈴木商店の鈴木岩収郎、池田貫兵衛、窪田兵吉、それに三井、住友が顔を揃えていた。

 長州主導で、山師を総動員させながら、樟脳を得るために、クスノキを伐って、伐って、伐りまくっていたのである。

 庶民の素朴な自然崇拝はこの時死ぬ。南方熊楠の警告通り、日本人の美的感覚も愛国的な感覚も激変していくことになる。(つづく)