2008年05月15日(木)萬晩報通信員 園田 義明

 まえがき

 いよいよ五月二十日に『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』が講談社+α新書より発売される。前著『最新アメリカの政治地図』(講談社現代新書)から四年振りとなる新著は、皇室周辺のクリスチャン人脈を取り上げた内容となっている。

 新著の特徴として第一にあげられるのは、現実主義者としての昭和天皇像を浮き彫りにしたことである。極めて戦略的にキリスト教との接点を持とうとしたことから見出したのだが、この背景には昭和天皇の他宗教に対する八百万的な共生と寛容の宗教心もあったはず。生物学者として南方熊楠とも交流があった昭和天皇は、自然の中に神々の息吹を感じ取っていたのかもしれない。

 昭和天皇は歴代天皇の中でも皇室祭祀に熱心であり、侍従長として傍らで見てきたのが終戦時の首相を務めた鈴木貫太郎である。鈴木は、天皇の身を案じ、最後まで無条件降伏に反対した阿南惟幾陸相に対して、「あれほどまでに天照大御神をあがめ、神武いらいの歴代の皇霊をまつり、八百万の神々に祈る天皇が、たとえ戦争に敗れたりとはいえ、神々の加護もなく、悲運に遭うはずはないのではないか」と諭したとされる(『聖断』半藤一利、PHP文庫)。

 実際には、この鈴木や吉田茂らが中心となって、昭和天皇の戦争責任訴追回避のための憲法九条を生み落とした。いわば憲法九条は「皇室を救い出す」ための究極のトリックだったとする見方を打ち出したのが、第二の特徴である。

  第三の特徴として、新著はクリスチャンたちを極めて好意的に取り上げている。残念なことに、日本ではまだまだクリスチャンに対する偏見が残っており、そうした書籍も数多く見かける。日本のために生涯を捧げたソヴェール・カンドウ、今上天皇の家庭教師として知られるエリザベス・グレイ・ヴァイニングらを取り 上げたことで、こうした偏見が少しでもなくなれば幸いである。

 カンドウ神父はフランシスコ・ザビエルと同じくバスク人、ヴァイニング夫人の父はスコットランド出身である。古の記憶が残る自然豊かなバスク人やケルト人の神話や伝説にも日本と共通するアニミズムや妖精やトリックスター、それに 巨樹信仰も存在する。ここに人種や宗教を超えた永遠不変の真理があるはずだ。

 彼らが書いた本をほとんどすべて取り寄せて読んでみたのだが、残念なことに、現在の日本人より、クリスチャンである彼らの方がはるかに繊細な自然観を持っていた。八百万の神々に導かれて日本にやってきたのではないかと思えるほどである。

  今、右手を眺めると、繊細さとは程遠い人たちが毎年夏になると靖国神社を取り囲んで大騒ぎしている。彼らとて、そのルーツを辿れば、せいぜい明治維新ま で。たかだか一四〇年の歴史に過ぎない。さらに中央から左方面に目を向けると、戦後の米国依存を忘れられない人たちが根無し草のように右に左に揺れてい る。中には極めて西洋的な地球温暖化などという訳のわからぬ大号令に振り回されている人もいる。

 ヴァイニング夫人が今から四十年近く前 の一九七〇年に書いた『天皇とわたし』を開いてみよう。彼女も日本に来るまで「人間が自然を支配し、征服し、それを利用するという西洋的な考えを吟味せず に受け入れていた」と告白する。ところが彼女が目にした日本人の自然観は異なっていた。

 日本の土着宗教は、恐怖からではなく感謝の気持に発する穏やかな感恩の自然崇拝であった。地震や、津波、火山の爆発、台風、火事、洪水のように、自然の災害がさまざまな仕方で襲う国で、人びとが自然を恐れたり宥めたりするのではなくて、その恵みと美しさに感謝するのは驚くべきことである。大木や、高い岩山には小さな社が祭られ、その前では祈りが唱えら れたり、花や食物が捧げられたりする。仏教もまた自然を慈しむことやそれとの調和の教えをもたらした。それは、東洋に広がっている態度で、その起源が東洋 にあるとされるアメリカン・インディアンが信奉している態度でもある。(『天皇とわたし』エリザベス・グレイ・ヴァイニング、山本書店)

 日本から帰国したヴァイニング夫人がこの話をした時、友人達は怪訝そうな顔つきをして反論した。「そう言っても、わたしたちは自然を征服しなければならないと思います。そのためにわたしたちの文明は進んだのですから」と。

  しかし、ヴァイニング夫人は「土地を荒らしまくり、大気を汚染させた結果生じた深刻な問題を抱えた今、わたしたちはこれまでの態度を再検討する必要に迫られている」としながら、、「東洋と西洋はこの分野で相互理解に向けてこれまで以上に接近しなければならない」との想いを語る。

 ヴァイニ ング夫人を感化させた日本人の繊細な自然観。それは今も確かに残っているのだが、個々の中に閉じ込められたままになっている。真の伝統保守としての八百万 派を名乗ることができれば、日本は再び輝きを取り戻せるのではないか。深刻な地球環境の悪化(私は地球環境問題と地球温暖化はまったく別物と考えている) が叫ばれる今こそ、我々の神々を解き放つ必要があるのではないか。

 そんな想いに駆られて原稿を進めた。私が主催する園遊会のメンバーか らも「わかりにくい」との指摘があったが、『クスノキと楠木正成』というタイトルに最後まで拘った。神々の再編をテーマにした近代日本信仰史的な本を目指 し、キリスト教だけに絞った本にはしたくなかったからだ。

 しかし、出版社側の意向からそのタイトルは二転三転する。麻生政権誕生を睨んだ『クリスチャン宰相、麻生太郎の源流』から、麻生氏が敗れると『皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』となり、最終的に「隠された」という週刊誌風文句が追加された。

 度重なる出版社側の企画変更にめげることなく、『クスノキと楠木正成』に関する第一章及び第二章をなんとか残そうと粘りに粘ったのだが、最後の最後に全て削除することが決まる。代わって、何が第一章に取り上げられたのかは、新著を手に取っていただければわかるだろう。

 結局、クスノキや楠木正成よりも、皇室、憲法九条、クリスチャン、そして「軽井沢テニスコートの恋の真実」の方が営業面から売りやすいとの判断によるものだが、筆者の立場からすると、正直なんとも複雑な心境である。

 クスノキから楠木正成への変貌が日本の戦争を支えたマインドを読み解くヒントになるのではないかと思えただけに、なんとも悔やまれる。

 そこで、インターネットを通じて『クスノキと楠木正成』を蘇らせる。題して『隠されたクスノキと楠木正成』。そのために、遅ればせながら公式ホームページまで開設した。(http://www.sonoda-yoshiaki.com/)

 これを読めば、『隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』の「まえがき」と「あとがき」に籠めた想いもより一層理解していただけるだろう。

 それでは、私の本籍地の近くにある「蒲生の大楠」を思い出しながら、クスノキの話からから始めていこう。

第一章 クスノキと南方熊楠

日本人にとって「クスノキ」とは何か

  クスノキの漢字は「楠」と「樟」の二つがある。一般的には「楠」と書くことが多いが、広辞苑を開くと「楠」は「南国から渡来した木の意」となっている。中 国ではクスノキ科のタブノキ類が「楠」であり、日本古来のクスノキには、「樟」を当てるのが正しいようだ。「樟脳」の原料としての「樟」である。

 さらに広辞苑で「楠学問」という言葉を見つける。「クスノキが生長は遅いが大木になるように、進み方はゆっくりであるが学問を大成させること」とある。これに対して、「進み方は早いが学問を大成させないままで終ること」を「梅の木学問」と言うそうだ。

  クスノキは学校の校庭にもよく植えられているが、「楠学問」のように堅実に成長してクスノキの巨樹のような大きな人物に育ってほしいと願っていたのだろ う。しかし、「教養」という言葉も死語となりつつある今、生きていくために有利な肩書だけを求める「梅の木学問」が主流になってきた。

 それでもクスノキは生き残っている。

  総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授が書いた『クスノキと日本人』(八坂書房)によれば、クスノキの広がる地域は西南日本に偏り、巨樹もまた西日本に多 い。そして、その六〇パーセントは神社仏閣の境内にあるという。クスノキの巨樹の多くは、神仏を崇める人々と共に長い時間を生き抜いてきたのだ。

 古から、日本人は、山や海川や草木岩石もすべて神霊宿るところと信じてきた。人は巨樹に永遠の時間と生命力を見た。威厳ある姿を畏れ、神気を感じ祈った。そして、巨樹を育んだ土地に「産土(うぶすな)」を見ていた。

  高知県高岡郡越知町の仁淀川の流れを望むところに「楠神(くすがみ)」なる地名を見出すことができる。おそらくクスノキを神木として祀ったことに由来する のだろう。その昔、この集落にあたり一帯を暗くするほど大きく茂ったクスノキがあったという。ある人が枝を伐り落とすと翌朝には元どおりになっている。そこで今度は根元から伐り倒したところ、集落に不幸な出来事が相次いで起こるようになった。そのために、人々は祠を作り楠神として祀ったという伝承が残って いる(二〇〇四年六月二四日付高知新聞夕刊)。

 こうした信仰はクスノキが生い茂る西南日本各地にあった。宗教などという認識すらなかった時代、巨樹は庶民にとって自然崇拝を象徴する存在だったのだ。

「クスノキ」の名を持つ南方熊楠

 ここで庶民の「クスノキ信仰」から命名された熊野のクスノキさんに登場していただこう。

 和歌山県海南市南東部の藤白峠のふもと、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された熊野聖域の入り口にあたる場所に藤白神社がある。六五八年に斉明天皇が牟婁温湯(現在の白浜湯崎温泉)に行幸した際、祠を創建したのが始まりと伝わっている。

  境内社のひとつに樹齢八〇〇年から一〇〇〇年というクスノキの大木を御神体とする子守楠神社がある。「藤白王子の大楠に籠る(子守る)熊野の神」といわれ たことから子授けの神様として知られ、子供が生まれるとこの神社を訪れ、このクスノキに祈願して名付ける人が多かった。 古来、「楠」「藤」「熊」の三文字から一文字を選んで名をつけると長命で出世するといわれてきた。

 この神社から二文字ももらったのが南方熊楠である。熊楠は晩年、精神を病んだ長男を毎日このクスノキの幹に触れさせて回復を祈ったことがある。「知の巨人」ですら巨樹の不思議な力を信じていた。

  熊楠は一九〇八(明治四十一)年十一月七日から十二月二日にかけて、本宮への熊野採集旅行を行い、最終日に現在の田辺市糸田にある猿神祠に到着する。古く は山王権現社と呼ばれた糸田猿神祠は、熊楠が一九〇六年にクスノキ科タブノキの朽ち木から新種の粘菌を発見した場所である。

 ところが、それから二年後に熊楠が目にしたのは、「神社合祀」の影響で木立が一本残らず消え失せた境内だった。  

 熊野の森を愛した熊楠は、無差別な「神社合祀」が自然破壊のみならず土地の歴史を抹殺し、庶民の素朴な産土神信仰の拠り処を踏みにじるとして、反対運動の急先鋒となっていく。

  熊楠が命をかけて護ろうとしたのは神社周辺の森だけではなかった。森が生み出すすべての自然と、その土地に住む人間との古からの結びつきを護ろうとしたの だ。研究を通じて触れ合った森や川や海、そこに住む生き物たちすべてを自身に一体化させていたからこそ、熊楠自身の痛みと感じた。

 熊野採集旅行から戻った熊楠は、一九〇九(明治四十二)年二月十九日付のグリエルマ・リスター宛の手紙でこう書いた。

 こうした野蛮な行為は、この国では近年日常的におこなわれており、やがて日本人の美的感覚だけでなく、愛国的な感覚をも壊し、あともどりできないところに追い込むことになる。(『南方熊楠』原田健一、平凡社)

  この熊楠の警告は悲しくも的中する。この手紙が書かれた二年後の一九一一(明治四十四)年に吹き荒れた南北朝正閏問題によって、庶民の素朴な美的感覚も愛国心もねじ曲げられ、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのようにあともどりできない戦争への道を突き進んでいくからだ。(つづく)