プリンストンで祈った督明さんの死

プリンストン大学図書館の賀川豊彦像とヘイスティング教授

 9月15日からニューヨークに行っていた。ほとんど20年ぶりの町。神戸物産がしゃぶしゃぶ店を展開することになり、そのプレゼンテーションのお手伝いが仕事だった。アメリカメデイアにもいくつか紹介されてほっとした。神戸物産のNYでの仕事が終わった17日夜、ホテルに帰ると賀川督明さんの死を伝えるメールが入っていた。
 督明さんは賀川豊彦の孫で2009年の賀川豊彦献身100年の記念行事で知り合い、大切な友人の一人としてつきあっていた。この記念行事がきっかけとなり、神戸の賀川記念館の館長となり、豊彦の社会福祉事業を引き継いでいた。督明さんの活動を通じて、協同組合関係者の中での賀川豊彦の威光はまだまだ消え失せていないと喜ばせて貰っていた。その督明さんが2年半前、がんを告知され、妻の一枝さんとともにがんと闘っていた。いったんは全身に転移していたがんの陰がすっかり消えて、奇跡は起こるものなのだとみなを喜ばせたこともあったが、ついに昇天した。
 翌日、休日を取ってプリンストンに行く予定になっていた。賀川豊彦の最後の著作『宇宙の目的』の英訳出版が終わったばかりのヘイスティング牧師を訪ねるつもりだった。ヘイスティング牧師にメールをするのは憚られた。牧師は7月末に神戸で督明さんと別れたばかりだった。
 翌朝、郊外電車に乗り、プリンストン・ジャンクション駅でヘイスティング牧師と会った。牧師は督明さんの死をすでに知っていた。プリンストン神学校は賀川豊彦が100年前のちょうど今頃、留学のためにやってきた場所である。ホールには日本の本所賀川豊彦記念館から寄贈された賀川の大きな肖像画が飾られてあった。教会での祈りの後、ヘイスティング牧師は大学院の授業で僕を紹介し、賀川豊彦の生涯について語った。
「今日は特別の日です。ここにいる伴さんとともに大切な友人である賀川督明さんが昨夜、昇天しました。賀川豊彦の孫にあたります。重要なことは督明さんの死によって賀川の名前が途絶えてしまうことなのです」
「では起立してください。督明さんのためにみなで祈りましょう」
 督明さんの死を特別の場所で、特別の人たちと祈ることになったことで、特別な気持ちにさせられた。
 さらに19日、Montclair Art Musiumの前庭で僕は偶然、賀川豊彦の自伝小説『太陽を射るもの』のタイトルとなったA Sun Vowという銅像を見つけることになったことを報告しておきたい。
 プリンストン大学を訪問した翌日、実は何をするか迷っていた。ニューヨークへ来る前夜まで『太陽を射るもの』の自炊作業を続けていて、なんとかこの銅像をみたいものだとひらめいた。ネットで検索したものの何の手がかりもなかった。唯一、モンクレアにインディアン関係の博物館があることを知り、そこを訪ねれば手がかりぐらいあるだろうと思い、電車に飛び乗った。
 モンクレアの駅から歩くこと30分、博物館にたどり着き、案内の女性にで「インディアンの子どもが太陽を射る像がモンクレアにあると聞いたがしらないか」と問うたところ、玄関前の庭を指さし、「あのことですか」と答えた。
 あまりに簡単に見つかったので拍子抜けというか、うれしさのあまり腰が抜けそうになった。
 モンクレア博物館はちょうど開館100年の記念展示をしていた。賀川豊彦がプリンストン神学校に留学したのも100年前の9月。豊彦がこの像をみたのは翌年1915年の夏休みだった。
 この像は当時売り出し中だった、Hermon Atkins MacNeilの作で、地元の篤志家が博物館に寄贈したものとの説明があった。伝説によると、酋長の位と嗣ぐインディアンの息子は太陽を射るほとの弓の名手でなければならなかったため、父親とともに日々、太陽に向かって弓を射ること義務づけられていたという。
 モンクレアの町を歩くと森の中にお屋敷が点在する典型的な高級住宅地である。隣の家とは100メートルは優にあり、芝生の上をリスが遊んでいる。豊彦もそんな家の一つでハウスボーイのアルバイトをしていた。神戸のスラムにいた時も自然を求めて六甲の山々を駆け巡った。アメリカの大金持ちの家でボーイを務めながら、インディアンの伝説に勇気づけられたはずである。

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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