金 玉均(キム・オッキュン=1851-1894)李王朝末の親日政治家。開国を進めて日本と連携することを目指した武力クーデター、甲申事件を起こしたが失敗。日本に亡命後、上海で刺客に暗殺される。
 金は忠清南道で貧しい両班の家に生まれたが、ソウルの叔父の養子となり、学問を積んで21歳で科挙に合格する。当時の韓国は幕末の日本同様、鎖国を貫いていたが、フランス、アメリカなど西洋列強が武力を背景に開国を迫っていた。そうした中、金は劉大致、呉慶錫ら開化思想家に急接近し、日本への関心を高める。
 日本との最初の接触は、1882年の日本視察だった。慶應義塾の福沢諭吉を介して朝野の要人と接触する中で日本にならって西洋の文物を導入して近代化を図る必要性を確信する。
 当時、李王朝では高宗が位についていたが、古い体制を存続させようとする大院君派と開国を進めようとする閔妃派に分かれて政争を繰り返していた。閔妃政権は1875年の江華島事件をきっかけに翌年、日本と屈辱的な不平等条約「江華島条約」を締結させられた。これに反発した民衆が1882年、壬午軍乱を起こして大院君を復活させようとしたが、閔妃政権は清朝に派兵を要請し、反乱を鎮圧した。日清戦争の引き金となる事件だった。
 開化派にとって有利な条件は整ったが、守旧派の抵抗は根強く、改革が進まない中で、1884年、金らは守旧派一掃を狙った武力クーデターに転じた。甲申事件である。高宗の指示を取り付け、革命は成功するかにみえたが、清朝側の反撃に頼みの日本が駐留軍を撤退させたため、金らによる新政権は三日天下に終わった。
 金は日本への亡命を余儀なくされ、玄洋社の頭山満らの庇護の元に捲土重来を目指すが、肝心の日本政府は清朝の報復を恐れて、逆に金の存在を煙たがるようになる。李王朝が差し向けた刺客から金を守るとの口実で小笠原諸島に流され、その後、体よく上海に追い出された。
 1894年、上海の旅館で金は刺客の洪鐘宇に3発の銃弾を撃たれ暗殺される。国事犯としてソウルに送られた遺体が待っていたのは「凌遅斬の刑」。逆賊として首と4肢を切られ、漢江岸にさらされた。
 新興勢力としての日本に頼ろうとしたことが大きな誤算だったとの評価もあるが、1895年に日韓合邦を唱えた「大東合邦論」を書いた樽井藤吉は、亡命中の金と意気投合し、頭山満と玄洋社の浪人を朝鮮半島の送り込む計画を立てた。1885年、大井憲太郎らが起こした大阪事件も、半島に渡って金ら開化派を支援するため計画されたが、事前に漏れて自由民権運動家ら139人が逮捕された。日本の民間では金らを支援する動きが少なくなく、金玉均の存在は、その後の孫文を支援する宮崎滔天らアジア主義者の台頭を促す大きな触媒役を果たしたともいえよう。(伴武澄)