『その流域』は賀川豊彦のふるさと、阿波を舞台にした唯一の小説である。徳島県南部、高知県との県境に近い那賀川の流域は徳島県でもマイナーな地域である。那賀川は2006年に清流日本一に選ばれたこともある自然の美しい流域であるが、全国的知名度はほぼゼロ。その那珂川の巌にほとばしる水や豊富な森林・動植物資源を彷彿とさせる表現がちりばめられてあり、読みながら、那賀町にとって小説『その流域』は貴重な文学資源であるはずだと思わせられた。

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 舞台はその那賀川から始まり、大阪、岩手、そして再び阿波に帰る。時代は1930年。世界恐慌が日本にも影響を与え、東北だけでなく、日本全体が経済の大きな谷間に入りつつあった。
 テーマは教育であるものの、東北の貧しさの一端を描く。人々の家より馬小屋の方がきれいだとか、着るものがないため、子どもが学校に行かないといった悲惨さを描く。このころの賀川文学の特色としてキリスト教精神と協同組合の重要性を説くことはもちろんだが、四国の地質学や天文学から始まり、樹木や鳥の名称を多く取り上げて自然から学ぶことの大切さを教育する側面もある。
 賀川の文学は社会問題を深くえぐり出すのを特徴としているが、この小説で村議会議員に次のように語らせる興味深い部分がある。
「どうも、日本の文部省は、貧乏な村に対する教育の手加減ということを知らないから困るね、この村のような貧乏な村に対しても、東京や大阪と同じような建築規定を設けて、廊下の幅は何尺でなくちゃならんとか、教員の初任給はこれこれ、これこれでなければならぬというのは、少し当を失しているように思われるな、どうです、村長さん、あなたはそう思いませんか?」
 豊かになった現在においても、文科省は80年前と同じことを言い続けているのだからおかしい。それにしても当時の小学校の教員の給与が自治体の財政力に左右されていた事実も現在のわれわれに強く訴えるものがある。
 一方で、ヒロインの由子に天体の動きと地球の気象の関係を語らせる面白い部分がある。
「おや、星を見ていらっしゃるの? 木星がよく光っているのね、今夜は。近頃アメリカでは、木星と太陽と月が一直線に並ぶ時には、地球上に必ず大地震があるって予言している学者があるんですってね。木星の衛星が三つ一直線になった時も、地球の表面に大暴風が起こるということを発表しているニュージーランドの学者もありますのね」
「私は日本のような天災の多い国では、もう少し天文学を盛んにしなければいけないと思いますわ。地震も火山も噴火も、暴風も、天体の引力に大きな関係があると判って来た以上、天文学を知らないで人間の歴史を論じることは出来ないと私などは思いますのよ。私もう少し木星のことが研究したくなったわ」
 素人的にはあまりに当たり前のことであるが、東日本大震災を経た現代の日本人として、従来の地震観測に決定的に不足している地球気象と天体の動きの関係を述べていて示唆に富む記述だと思わせる。
 表紙は初版本を元に復元した。(2013年8月20日、伴武澄)