昨年12月5日、南アフリカのマンデラ元大統領が亡くなった。人種差別に反対して、27年にわたり国家反逆罪の名の下に投獄されていた。1989年にマンデラさんが釈放され、1991年に南アが人種差別政策を撤廃したニュースに接したときは本当に信じられなかった。
 黒人も含めた大統領選挙でマンデラ氏が当選するのは当然すぎることだったが、マンデラ氏のすごさは同胞に対して、怨みに対して憎しみで返さないよう強く求めたことである。近代西欧社会の最も恥ずべき行為は人種差別を制度化したことであると思っている。
 その最も差別を受けていた国でマンデラさんは有色人種のために闘ってくれた。そして恩讐を乗り越えた愛の重要性を私たちに教えてくれたのだった。
 マンデラさんのことを我がことのように思うのは、僕が多感な少年時代に人種差別(アパルトヘイト)の南アフリカで過ごしたからである。
 大学時代だからいまから40年も前の話である。学友と政治を語ることが多かった。多くの学生は社会主義にかぶれていた。世の中の対立は資本と労働にあり、世の中の矛盾はすべてこの対立構造によって語られる風情があった。だから学生の中では、資本主義社会はいずれ社会主義に取って代わるという意識が多分にあった。
 僕は少々違う体験をしていたから社会主義にはどうしてもなじめなかった。世の中の対立がすべて、資本と労働の論理で解き明かされるほど単純なことはないと考えていた。世界にはもっと根深い差別があるのだと思っていた。
 僕が考えていたのは人種間の問題の方が階級対立よりより深いということだったが、当時、僕の心情を理解してくれる人はほとんどいなかった。
 南アで困惑したのは、差別されている日本人が同じ差別されている黒人をバカにする場面にたびたび遭遇したからだった。もちろん日本人は「名誉白人」の待遇を得ていたから、白人居住区に住むこともでき、ホテルやレストランだけでなくバスも郵便局も白人並みの扱いを受けていた。
 外交官や商社マンたちは美しい芝生を敷き詰めた広大な敷地の邸宅に住み、何人もの黒人の使用人を雇っていた。プールやテニスコートは当たり前である。気候は温暖で物価は安い。人種差別に鈍感でいられたら王侯貴族のような生活だった。
 でも学校だけは別だった。名誉白人でも公立の学校への通学は体よく断られた。当時の南アの法律ではホワイトとノンホワイトの区別しかなく、ひとたび町に出れば、名誉白人などというものは単なる「お目こぼし」にしかすぎないことはすぐに分かることとなった。
 南アでは、同じ顔をしたアジアの人種でも中国人はまた別扱いだった。ほとんどの日本人が南アで短期の滞在の外国人であったのに対して、多くの中国人はそこで生業を営む南ア人だったから、彼らは白人地区に住むことは許されていなかった。中国人たちは黒人とは違う地区だが、「隔離」された居住区にしか住むことを許されていなかった。
 そんな白人たちの身勝手な世界にどっぷり浸かって、それでも黒人ばかにする日本人というものが信じられなかった。
 1960年代、南アに支局を置く日本のマスコミはなかった。ときどきロンドンから記者が取材にやってきた。南アに数日滞在して日本人から南ア事情を聞きかじった記事が日本の新聞に掲載されることがあった。多くの記事はやはり階級史観で南アの人種差別を分析していた。
 冗談じゃないと思った。南アの人種差別はそんな単純な構造で成り立っているわけではなかった。表面的には確かに白人が資本家で、圧倒的多数の黒人が搾取される側にいた。それは間違いないことなのだが、資本家側には一人の黒人もいないのだ。弱い黒人が強い白人に支配されている。高校生だった筆者には、ただそう考える方が自然だった。
 20世紀前半までは、西欧にも白人同士でも資本家による過酷な収奪構造があった。だから当時の南アにも「プアホワイト」という貧しい白人も多くいた。だがその貧しい白人と収奪される黒人が「共闘」を組むという図式は考えられなかった。そのプアホワイトこそが南アの人種差別政策の圧倒的支持層だったのである。
 ある日、ロンドンから朝日新聞社の記者がやってきた。わが家にも一晩来て父親と話し込んでいた。高校生の筆者もその話をそばで聞いていた。難しい話をしていたのではないが、こんな日本人もいるのだと感動したことを覚えている。
「レストランに入ろうとしたら断られたんですよ。I am not Chineseと言えば入れてもらえたのでしょうが、そのひと言が言えなくて」
 その一言に僕は恥じ入った。毎日のように差別されるたびに躊躇なくその一言を発していたのだから衝撃は大きかった。僕のアジアへのこだわりはその日に始まったのかもしれない。
 今回、マンデラさんの葬儀に世界各国から元首クラスが大勢集まった。日本からは皇太子殿下が出席した。しかし、安倍晋三首相含め日本の閣僚の中で本当にマンデラさんの死を痛んでいる風情はなかった。特定秘密保護法案の行方の方が大切だったのだろう。
 その日、僕はとても悲しかった。20世紀の偉人の死を地球規模で悼んでいる時に日本だけはその埒外にいるのだと感じた。そして、寂しいことに人種差別に対して世界で一番鈍感な人種が日本人ではないかと考えた。(伴 武澄)