スコットランドでの賀川豊彦再発見
船井幸雄氏のサイトで「リレーでつなぐハートの話」で「スコットランドでの賀川豊彦再発見」を投稿した。萬晩報ですでに掲載したコラムを少しだけ書き換えたものである。
http://www.funaiyukio.com/heart/
2004年6月、スコットランドのグラスゴーを訪ねました。その2ヵ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。
賀川が世界的に知られた人物だということは書物で読んでいましたが、正直言って賀川の信奉者たちが針小棒大に伝えてきた伝説でしかないと思っていました。
スコットランドのその牧師さんが70歳を超えて病身であるということで、ぜひとも会っておかなければ悔いが残ると思ったのです。
そのアームストロング氏とはすぐに連絡がとれて、グラスゴー大学の研究室で会いました。
アームストロング氏は1933年生まれの71歳。温厚な 面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えました。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めましたが、牧師になりたいという意志でス コットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主です。
アームストロング氏は賀川との出会いから話し始めました。
「いささか不思議な出会いでした。その出会いによって、たちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、60年たった今でもそれは続いています。
11歳の頃、鼠蹊(そけい)部の腫れ物が膿瘍に悪化する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を手にしたのですが、この本が私を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせてくれたのです。
まずその本の背に縦書きされていた『Kagawa』というタイトルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書いた賀川の伝記でした。」
アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは1932年です。
賀川はまだ44歳。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことです。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされます。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということでしょう。
この『Kagawa』は英語の他、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンジナビア語、トルコ語、スペイン語、インドの方言、中国語に翻訳されました。
アキシリング氏は、1873年、アメリカ中西部のネブラスカ州オハマ市に生まれ、28歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした人物です。
その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦でした。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くしました。
日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのです。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ません。
スコットランドのアームストロング牧師に戻りたい。『Kagawa』を読んで病身の少年アームストロングは震えるような喜びに浸ったといいます。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのです。
「こういう人間がいるんだ。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になった。」
当時は日本とイギリスは戦争状態でした。そんな時、一人のイギリスの少年の心を動かした日本人がいたのです。
「クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍など問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年時代の私の想像力に大きな影響を与えました。」
アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと若さを取り戻すそうです。こんな話もしました。
「彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学校に学んだ後、神戸の新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりました。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態もひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあったのです。」
「学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語るだけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。
その結果、賀川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したのです。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を握っていないと眠りにつけない、という男もいました。」
「『貧民窟の生活を見ている時、社会の病弊がわかる』という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけることにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみればわかります。」
アームストロング氏は「昨日来ればよかったのに」と惜しんでくれました。
私がグラスゴーに着いた前日の6月5日にグラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題したシンポジウムを開いていたのです。実はシンポジウム参加を目指したのですが、仕事の関係で間に合いませんでした。
アームストロング氏は1949-1950年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道等について講演するため、40人以上の人から精力的に取材をしていました。
シンポジウムには40人ぐらいしか集まらなかったと言っていたが、それだけ集まるだけでも驚きでした。しかも場所はグラスゴー大学です。賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットやキリスト教の新聞を通じて呼びかけると、100人近くから反応があったそうです。
一番私が感動したのは、ある老齢の女性の話でした。看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川が来ました。1950年のイギリス訪問時のはずです。
彼女は修道院で草取りをしていました。
「そうしたら賀川がつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって『ごくろうさん』とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった。」
「あの大賀川に手を握ってもらった」という話をそのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように語っていたというのです。
賀川がイギリスを訪問した当時の新聞を調べると、スコットランドの新聞に「Kagawa Returns」という見出しで賀川の記事が掲載されていました。「もう一度来た」ということ。その前の訪英は、1936年だからその14年前である。新聞記者たちが覚えていて見出しを「賀川リターンズ」にしたに違いない。「おお、すごいな」「戻ってきてくれた」ということなのです。