これまで3回にわたりアメリカに住む日系の人たちについて書いてきた。仕事を通じて、云ってみれば偶発的に知ることになった彼らだが、彼らの暮らしや価値観に接して数多くのことを学んだ。翻してみれば、それはやはり私たち日本と日本人のことに行きつく。最終回はそんなことなどを書き記してみたい。
 ポルトガル人のジョークに「英国やスペインは武器の力で世界を征服したが、俺たちポルトガル人は愛の力でブラジルを勝ち取ったよな?」というのがある。これは冗談だとしても、なかなかに的を突いた言葉だ。国を出て行くときの自らの垣根のことでこれが非常に低いのだ。前回も取り上げたが、行った先で子の世代にはその国に同化して生きていく民族性とそうでない民族性がある。その点、日本人はポルトガル人と似ている。日本人が愛でアメリカに潜り込んだとは思えないが彼らと同じように垣根が低いのだ。子や孫の代になっても中国人や韓国人はその国でしっかり自国のコミュニティを作り現地に溶けない。大戦中、アメリカ人に愛される日系人とその誇りのために命を賭して戦った442連隊や第100大隊の働きが象徴している。どちらがいい悪いでなく、そういう民族性なのだろう。
 愛で征服する国と愛されるために戦った国、日葡両国の親善のためにもう少しこの話を続ける。ポルトガル語にサウダージ(郷愁)という言葉がある。若いころから僕はこの国の民衆の歌でもあるファドがこよなく好きでレコードやCDを集めたりして来た。このファドの底流にある想いこそサウダージなのである。ある時驚いたことがある。それはこのファドがブラジルのポルトガル人達の郷愁や望郷の想いが歌になったもので、そもそもの始まりだったことだ。だからファドはブラジル生まれだった。それがポルトガル本国にも伝わって広まった。知らなかった。歌は高きから低きへ本国から現地に流れ着くことはあっても、その逆はないという僕の勝手な思い込みを恥じた。
 そのサウダージである。望郷の想いとは帰りたくても帰れない境遇から生まれるのだろう。小金を貯めて国に帰る、つまり出稼ぎ根性からは生まれないのだ。すでに書いたが日本からの移民たちも当初は出稼ぎ的な色彩が濃かった。時を経て国の事情も変わり、その国に骨を埋める覚悟が出来たとき、日系一世たちの胸に去来したのはこの望郷の想いであったことは想像に難くない。
 40年ほど前、入社して間もないころアメリカが見たくて会社に無理を言って西海岸に出向いたことがある。サンフランシスコの日系街でふらりと入った食堂の壁に大きく「美空ひばり来演!テケツ$10.00」と書かれていたのを想い出す。テケツというのが分からなかった。日系英語でTicketのことだと分かったのは後のことだった。「ひばりが来るならテケツ買わにゃ!ワシらの生きとる間にはもう見れんよ。」ひばりさんは日系一世の人たちにとって紛れもなくファドであったに違いない。
 そんな風に、出向いた先の現地では垣根の低い民族性の日本人だが、一方で国の政策として自国の防御のために日本はえらく垣根を高くしてあるのが気にかかる。外国人労働者の流入、難民の受け入れ実績、送り出すのに易く受け入れには難い移民政策など他国と比べてもそのハードルは異常に高く設定されているように思えてならない。
 戦後の日本の繁栄はそのような、云ってみれば堅牢な安全装置で守られたビーカーの中の繁栄とも取れなくはない。移民制度を基本として成り立つアメリカは、それはそれで問題も数多く抱えるけれど、来るものは拒まずの国の基本政策にいささかの揺るぎもない。この不器用なまでに貫かれる基本姿勢には教えられることも多かった。
 例えば子供たちの教育。小中学校で英語の解せぬ児童、生徒が一定数(それも3%とか5%極めて少数だった)を超えると、学校には特別クラスが編成され英語をまず話せるように努力する。努力ばかりでなく成果を着実に出していくのだ。これは子供を抱える父兄としてはそこまで国や自治体がやるのかと驚きもし頼もしかった。
 我が国も一連の国際化への潮流のなかで、日本が一定のプレゼンスを果たすためには相応の覚悟でこれまでの安全装置としての垣根を低くすることを考えねばならぬだろう。仏のアルジェリア人労働者問題、独のトルコ人問題など欧州各国の労働事情は火種を多数抱えながら、それでも正面から取り組んでいる。日本はあまりにこれまで垣根を高くしておいて、知らしむべからず拠らしむべし一辺倒できた。これはもう通用せぬ時代が来ている。
 月に一度2時間、神奈川県警外事課の若い刑事さんに当世国際事情をご進講するおしゃべり会をもう2年ほども続けている。不法外国人就労、覚せい剤所持、違法風俗営業取締、垣根を低くすればするほど現場はホントに大変だと思う。ヘイトスピーチなどといった特定の外国人排斥の罵詈雑言、暴言をプラカードにして練り歩くデモなどもこの処出回っているらしい。しかしこれだっていつの時代にもこういうエキセントリックな奴らはいる訳で、これらの悪態を取り締まる法規がないこと自体が問題だと思う。現に欧米諸国でそんなプラカードを掲げたらすぐしょっ引かれる。何も起きない穏やかな金魚鉢を前提に出来ている仕組みがすでにおかしいのだ。「言っていいことと悪いことがある」という法規は国際的にはスタンダードなのだ。垣根は低く問題には厳しく処する。先進国である以上は、国レベルでも応分のノブレス・オブリッジの基本姿勢が求められているのではないだろうか。
 異質が混じり合ってこそ新しい文化や潮流は生まれるというのは、今後さらに国際化する我が国の運営に必須のスタンスだろう。古くは遣隋使、遣唐使の時代から我が国は他国に異質を求め国の繁栄の基礎を形成してきた。そして固くガードされた国の内側ではその閉鎖性が故に、日本独自の価値観や美意識も育てた。しかしこれに一方的に依存していては単なるガラパゴス系の進化と揶揄られても致し方あるまい。
 単に観光旅行であれを見てきた、これが美味しかったというのも結構だと思う。しかし異文化の狭間で生活し自己のアイデンティティに目覚めることのできる留学生にはうんと頑張って外に出て行ってもらいたい。一方で日本を目差す海外の若者にはうんと門戸を開いて日本をもっとよく知ってもらいたい。日本に来た留学生が日本嫌いになって帰国するケースが少なくないと聞く。残念なことだと思う。そして内向き志向の日本の学生たちだ。彼らが内向きにならざるを得ない背景には彼ら海外へ飛躍する学生の帰国後の審査基準が目先の評価や尺度で決められて留学経験が自身の将来に決して有利に働かないといった要素も少なくないらしい。困ったことだ。
 人生のある時期にまるで通りすがりのように日系アメリカの人々と身近に接して来たわけだが、見も知らぬ異文化に身を投じ無手勝流に自己を形成していった彼らと親しくなって本当に教えられることが多かった。それはまたこれからの日本と日本人が求めていかなければならない拠りどころなのだと思っている。最後に、国を出て異国に渡った日系移民の人々が辿った歴史を知ってもらうためにも、日系アメリカ人のこと、日系ブラジル人のことのあらましをWikipediaに求めてみた。ご理解の一助にしていただければ嬉しくおもう。