NHKオンデマンドをよく見る。なかでもBSで放映されたものの録りだめ「NHKアーカイブス」のファンである。今夜見たプログラムは「花はどこへいった」。我々団塊の世代には懐かしいタイトルだ。このフォークソングにまつわる不思議な謎解きのドキュメンタリーだった。時代のうねりのなかで一つの曲が歌い継がれた社会的背景が甦ってきて無性に懐かしくなった。

 この曲が全米に知られるようになったのはキングストン・トリオのヒットからだった。1960年の初頭のこと。それまで9年間鳴かず飛ばずの彼らを一躍有名にした曲でもある。当時は反戦というより平和を願う歌として登場し、その後フォークシンガーを中心にポップスやロックの歌手たちにも歌い継がれていった。ジョニー・リヴァース、ピーターポール&マリー、ブラザースフォーなど時代に敏感なアーチストがこぞって取り上げた。しかしはっきりと反戦、厭戦の象徴的な歌として意識されだしたのは60年代後半からのことらしい。まだカラオケもない頃、僕たちも何か集会があると決まって歌ったものだ。当時はベトナム戦争の煽りで世界的にフォーク・ソングのブームであった。

 北ベトナムの旧正月いわゆるテト攻勢でアメリカが泥沼に入り込んだ頃のこと。「何のための派兵?何のための戦争?」という米国内の反戦ムードの高まりの中、この曲はさらに浸透していく。番組は映像記録として、当時南ベトナムのケソン基地で米海兵隊員たちが歌うこの歌が残されていたことを探し出す。戦場で歌われることなど士気を損なうものとして固く禁じられるはずの状況下で兵士たちの歌う映像は胸を打つ。当時の海兵隊司令官もこの取材をOKしたという。厭戦ムードは兵士にまで及んでいたのか?それともこの曲と詞の持つ「穏やかさ」ゆえに記録として残る結果となったのか?真相はわからない。しかし同じ反戦歌でも「We shall over‐come」のような挑戦的なものとは一種趣の違う何かが作用したのかもしれない。

 その後この歌は、アメリカからベトナムへ、そして世界の反戦運動へと歌い継がれていく。歌われる状況は様々に異なっていった。第一次世界大戦を題材に生まれた詞が、その後、反ナチズムの歌として、アイルランドのIRAの抵抗のさなかで、そして戦争のない日本で・・・。 世界各地の街頭インタビューがあったが、国や年代を越えて数多くの人々がメロディーを口にできるのは印象的だった。

 番組の核心部分で二人のドイツ人女性を、番組は紹介している。一人はマレーネ・デートリッヒ。冷戦の申し子のような形で定着したこの歌を、彼女は好んで取り上げ世界各地のステージでドイツ語で歌ったという。ナチの贖罪の意味も込めストックホルム、コペンハーゲンで彼女は舞台から語りかけた。セックス・シンボル的女優だった亡命前の彼女とは別の彼女がいた。たまたまストックホルムのステージを見た作家の五木寛之は、前の席で家族とともに聴いていた国軍兵士がすすり泣くのを目撃したと自著の中で紹介している。マレーネの歌はドイツ人としての罪の意識と、ナチに抵抗しナチのプロパガンダとしての誘いを振り切り米国に亡命した彼女自身の人生とも重なる。大戦後、彼女への批判はくすぶり続けドイツへの帰還すらままならなかった。ナチへの、そして共産主義への二重の抵抗を、この歌にこめた彼女の語りは、ドイツ語のわからない僕にも強く訴えかけて来るものがあった。

 そして二人目はフィギュアスケートのカタリナ・ビット。東ドイツから出場した五輪サラエボ大会で彼女は金メダルを獲った。この後、サラエボが内戦で廃墟と化したことを知る。当時ピークを過ぎた28歳という年齢にも拘らず、彼女は東西統合ドイツの代表としてリレハンメル大会に出ることになる。結果は7位に終わったが、クルト・マズアの編曲による「花はどこへ行った」に込めた彼女のメッセージはフィギュアの世界を越え全世界の視聴者の心を打った。冷戦の終焉と新たな民族紛争勃発への憤り。技術偏重に走り始めた当時のフィギュア界で、敢えて表現を重視した彼女の滑りは強いメッセージで語りかけた。番組はこの2人のドイツ人女性を通して、この歌の持つ意味を静かに投げかけている。彼女へのインタビューは15分の予定が1時間半にも及んだと収録後、担当ディレクターがエピソードを紹介している。当初$5000と持ちかけられた出演料も番組の意図を理解したあと、ノーギャラに切り替えられたとも語った。

 そもそも、この歌の詞と曲はフォークの父ピート・シーガーによって作られた。50年代のことだ。彼の名は僕たちの世代にとってはウディ・ガスリーと並らび、すでに伝説の人だったように思う。ところがこの番組で、なんとこのピート・シーガーが突然現われたのだ。現在86歳(当時)NY州北部の農村で健在であった。取材の中で彼はこの歌の誕生のエピソードを語り出す。飛行機の機内誌で読んだロシアの「コサック兵の子守唄」が心に残り、彼はノートにメモした。

 葦の葉を刈る少女はどこへいった
 少女はコサック兵の嫁になった
 そのコサック兵はどこへいった
 戦争に行った・・・

 この短い詞に彼は惹かれるものがあったという。葦の葉を「花」に変えて彼は曲を作った。 3番までの本当に短い歌だったという。この原曲に4番5番を付け加えたのはジョー・ヒッカ―ソンというフォーク研究家だった。パブで皆が一緒に歌う時、あまりに短くてすぐ終わってしまうことから彼が詞を継ぎ足したのだ。

 兵は戦争でどうなった?
 死んで墓場に行った。
 墓はどうなった?
 野に咲く花で一杯に覆われている・・・

 こうして「花はどこへいった」は完結した。完結ではない。文字通り野に咲く花はまた少女に摘まれて・・・。そしてまた繰り返されて・・・人間はいまだに悟っていない。まだ戦争は止まない。

 ピート・シーガーが飛行機の中で読んだコサック兵の物語は、ロシアの文豪ショーロホフの「静かなるドン」であった。まだ健在であったショーロホフとピートの交流がここから始まる。

 結局、ピートとショーロホフの出会いは果たされなかった。第一次大戦から革命までの黒海沿岸部ドン川(ドニエプル)のほとりの農村とコサック兵たちを描いた大河小説『静かなるドン』は彼のノーベル賞受賞理由の一つでもあった。この作品が思わぬ形で世界中の人に知られるようになったことにショーロホフは満足だったという。「それこそ自分が描きたかったことだから・・」と言っていたと彼の娘さんはインタビューで語っている。娘さんは最後に「ピートさんには感謝しています」とも付け加えた。

 作品が反戦を声高に唱えるのではなく当事者や関係者への取材と映像から、淡々と静かに語りかけるスタイルに胸を打つものがあった。それは「花はどこへいった」に流れる曲想にも通じるものでもある。そして僕たちにも馴染みの深いこの曲の裏に、こんなにも多くのエピソードがあったことが新鮮に映り、それらを丹念に紡いでいく丁寧な番組作りに感服した。

 そしてまた、言葉は適切ではないかもしれないが、この曲を作った人たち歌った人たちの「真面目さ」をちょっぴり羨ましく思った。確かに日本でもこの歌は皆に親しまれるほどヒットし、今に至るまで歌われ続けている。でも何かが違うのだ。あの当時、べ平連の活動に見られるような純粋な反戦活動もあった。その類いの歌を歌うフォーク歌手もいた。しかし日本におけるこの歌のヒットの背景はそれらと無関係にファッションとして、時代の先取りとしてのカッコ良さからではなかっただろうか。反戦まで流行りものにしてしまう雰囲気がこの国にはある。このような国内外のギャップ現象をそこここに感じているのはぼくだけだろうか?

 たしかに、「いまそこにある戦争」といった現実感からほど遠い日本の社会状況では比較自体が無理なのかもしれない。でも企業の尖兵がアフリカの砂漠でテロの犠牲となる時代だ。その一方で、他人や他国の痛みには鈍感なまま商業主義に毒され、流行の先取り感覚にばかり走る若者たちを見ていてやるせなくなるのもまた事実である。