いまごろ総選挙の争点が分かった(2)
小泉純一郎が2001年、首相になった時、僕はけっこう興奮した。萬晩報はそれまで、景気対策のため、何度も巨額の補正予算を組み、結果的に現在の財政の国際依存体質を築いていた自民党政権を批判しまくっていた。
萬晩報が主張し続けたと同じことを小泉さんが始めたから、批判が出来なくなって困ったことがある。小泉さんをいまだに評価しているのは、「構造改革なくして景気拡幅なし」をスローガンに景気対策のための補正予算をほとんど組ませなかったことである。もう一つは株価を維持する政策を一つも取らなかった。ほっておけば株価は下がるが、どこかで底を打つという信念があったのだろう。90年代にはPKO(プライス・キーピング・オペレーション)まであったことを思い出してほしい。
事実、株価は2003年3月を底値に2006年の1万7000円台に向けて一気に上場し始めたのである。もちろん景気も回復基調に戻った。小泉さんの構造改革の最大の仕事は日本道路公団と郵政事業の民営化である。
その後、小泉改革が日本を駄目にしたというネガティブキャンペーンが起きた。発信源が霞ヶ関であることは間違いない。改革ができない自らの責任をすべて小泉さんに押しつけた。
小泉さんが自民党総裁になれたのは自民党の地方支部の声だった。衆院と参院の国会議員の支持は橋本龍太郎に集まっていたが、党員投票で小泉さんへの支持が大きなうねりをつくったのだった。田中真紀子外相をめぐる騒動で一時期国民の支持も下がったが、多くの国民は最後まで小泉さんを支持し続けた。
小泉さんをついだ安倍首相は改革主義だったが、胆力が足りなかった。その後福田、麻生と続いたが、霞ヶ関が勢力を巻き返し、小泉改革は元の木阿弥に近づいていた。そんな自民党に国民が最後通牒をわたしたのが2009年の総選挙だった。僕の気持ちでいえば、小泉改革路線を復活するはずだったのが、鳩山民主党政権の誕生だった。
鳩山民主党で僕が共感したのは「官から民へ」というスローガンだった。思い出してほしい。国交相に就任した前原さんは群馬県で進められていた八ッ場ダムの建設中止を宣言した。そのことは多くの波紋を起こしたが、国民の喝采を浴びた。羽田空港を国際化するとの方針も世の中の趨勢に棹さしただけだったが、国民的喝采を浴びた。
高速道路無料化や子ども手当は財源不足からその後、形骸化したし、普天間基地を最低でも県外という思いは実現できなかったが、今から考えれば失政でも何でもない。野田民主党政権はマニフェストに出来ないことは書かない方針のようだが、本来は理想を掲げるのが政治ではないのか。
かつて田中康夫さんが長野県知事に当選したとき、官僚の反抗を招くだろうと書いた。事実その通りになった。哀しいのはメディアまでが田中知事包囲網と築いたことだった。われわれメディアの人間は記者クラブに属していて、主に官僚から情報を得ることに汲々としてきた。いまもそうしているはずだ。多くの場合、政治家の評価まで官僚を通じて得ることが多いのだ。そのことは直接記事にはならないが、記事の行間に多くの場合反映するのだ。
鳩山さんが政権の座を降りざるを得なかったのは、普天間問題だった。普天間問題の発端は1995年に起きた米海兵隊による少女暴行事件だった。それから14年かかって自民党でさえ普天間問題を解決できなかったのに、鳩山さんが1年足らずで解決できなかったといって、野党である自民党は鳩山さんを責めたのだった。本来ならば自民党には鳩山さんを責める立場にないにも関わらずである。(続)