伴美喜子(高知工科大学国際交流センター特任教授)2012年12月2日

 十月末、高知工科大学と国立木浦海洋大学との交流協定締結及び田内千鶴子の生誕百周年記念事業出席のため、韓国の木浦市を訪れた。韓国の南西にある木浦市は釜山に次ぐ港町であり、古くから交易の中心であった。海岸近くに儒(ユ)達山(ダルサン)と呼ばれる山が聳えており、その麓に児童養護施設木浦「共生園」が、そして道路を挟んだ向かいに国立木浦海洋大学校がある。
木浦は高知に比べると十度以上も気温が低く、とても寒く感じたが、田内千鶴子が生まれた十月三十一日は晴天に恵まれた。スケジュールの合間を縫い、儒達山の中腹まで登ってみた。眼下には瀬戸内海にも似た多島海が広がり、今年六月に開通したばかりのモダンな大橋が悠久の自然にアクセントを添えていた。この地で、この日韓の壮大な愛のドラマが始まった。

 木浦のオモニ
 共生園で三千人の孤児を育て、「木浦のオモニ(母)」と慕われた田内千鶴子、韓国名尹(ユン)鶴子(ハクジャ)、一九一二~一九六八)は高知市で生まれた。七歳の時に朝鮮総督府に勤務する父親と共に朝鮮半島に渡った。少女時代は、異国でありながら日本語を話し、何不自由なく育ったはずである。成人して音楽教師となり、恩師の紹介で共生園で奉仕活動を始めた。園長はキリスト教伝道師、尹(ユン)至(チ)浩(ホ)。「乞食大将」と呼ばれる名物男であった。やがてクリスチャンである二人に愛が芽生え、一九三八年に結婚した。当時、日本人と韓国人の結婚は周囲から祝福されるものではなかった。
 孤児を拾ってきては食べさせ(その食べ物の調達も容易ではなかった)、寝かせ、最低限の規律を叩き込む仕事は、日々「戦争」であったに違いない。「オモニ、オモニ」と呼ばれながら、体を張って、何十人、何百人の孤児の世話をする千鶴子の姿は「大和撫子」のイメージからは程遠かったのではないだろうか。
 やがて終戦。敗戦国の日本人は朝鮮半島から引き上げざるを得なかった。千鶴子の父は他界していたから、母と共に故郷高知に戻ってきた。二人の幼子を連れて。しかし、千鶴子は韓国の夫や共生園への思い絶ち難く、母を一人残して、国交のない韓国へ再び子供たちと共に渡る。
 厳しい生活が待っていた。一九五〇年に朝鮮動乱が勃発。一時木浦も共産軍に占拠される。尹至浩とその日本人妻は人民裁判にかけられ、危うく殺されることになる。しかし、村人が彼らを守った。二か月後には、米軍に後押しされた韓国軍が支配。共産軍の下で人民委員長をさせられた尹至浩は今度は共産スパイの疑いをかけられる。この間、共生園の孤児の数はどんどん膨れ上がり、一時は5百人を超えた。
 一九五一年のことである。ある日、夫が食べ物を調達に光州市まで出かけたが、行方不明となる。千鶴子は夫が帰るまでは、園を守らなければと歯を食いしばり、ある時は人の力を借り、ある時は騙されたりしながら、何とか園の子供たちを守り抜いていく。
 日韓関係に新しい兆しが見え出す。政権を取った朴(パク)正煕(チョンヒ)は日本との国交回復を急いだ。その言わば「露払い」として、一九六三年、千鶴子が日本名で大韓民国文化勲章国民章を受章するのである。そのニュースは日本でも大きく取り上げられ、「凱旋」帰国も果たしたが、財政的な支援を受けることはなかなか容易ではなかったようだ。息子の田内基が著した『母よ、そしてわが子らへ』には外向きの顔と実体の間で苦しむ母の姿が克明に描かれている。千鶴子は所謂高知の「はちきん」ではなく、口数の少ないおとなしい女性で、社会事業をやるようなタイプではなかったそうである。「孤児のために苦労をする夫のそばにいようと思っただけ」だという。
 やがて精魂尽き果てた千鶴子は癌を患い、受賞の僅か五年後の一九六八年に五十六歳の短い生涯を閉じた。生まれた日と同じであった。木浦市では三万人の市民に見送られたという。

 生誕百周年記念事業
 そして、約半世紀後の今秋、韓国と日本で彼女の生誕百周年を記念する事業が盛大に行われた。ソウルや木浦市で開催された記念行事には約五百人の日本人が参加した。高知からは尾崎知事、岡崎市長、長年千鶴子の顕彰事業に携わった西森潮三県議、高知田内千鶴子愛の会の吉岡郷継会長らから成る九十人の訪問団も出席した。クライマックスは母の思いを遂げたいと、田内基らが発案した国連「孤児の日」制定の採択決議であった。
 一週間おいて、今度は高知市で記念行事が行われた。丁鍾(チョン・チョン)得(ドク)木浦市長が来日し、十一月八日には申珏(シン・ガク)秀(ス)駐日韓国大使を迎えて記念交流パーティーが開かれた。九日は千鶴子が生まれた若松町に立つ記念碑前で胸像レリーフの除幕式と献花式が行われた。更に山崎朋子氏の記念講演、在日韓国人アーチストによるコンサートと続いた。コンサートは広島総領事の発案だったと聞く。献花式では熱心なキリスト教だった千鶴子に讃美歌が捧げられた。

 もう一つの物語
 田内千鶴子の物語は異国で三千人の孤児を育てた偉業の話に留まらない。キリスト教一家である尹(ユン)・田内家のもう一つの物語がある。千鶴子亡き後、共生園を継いだのは長男の基だった。そして、基がソウルで少年少女職業訓練院、日本で在日コリアン高齢者のための「こころの家族」開設と次々と社会福祉事業を展開していく中で、共生園は長女の清美、基の娘、緑と引き継がれ、二〇〇一年からは清美の娘の鄭(チョン)愛(エ)羅(ラ)が園長を務めている。現在千鶴子の次女尹(ユン)香美(ハンミ)は知的障害施設木浦「共生再活園」の園長、次男尹(ユン)榮(ヨン)華(ホア)は社会福祉法人「済州共生」の代表理事である。

 日韓友好のシンボル
 もう一つの驚きは一人の女性の善行が日韓友好の道しるべとなったことである。千鶴子の半生を描いた日韓合作映画「愛の黙示録」は、一九九八年に韓国で日本映画解禁第一号として上映された。映画がきっかけとなり高知市に記念碑が立ち、その縁で二〇〇三年に高知県と全羅南道の間で観光・文化交流協定が結ばれた。そして、今回高知市と木浦市が友好交流協定を締結したのである。
 領土問題で、日韓関係がギクシャクする中、今回の交流事業は「中止」という選択肢もあったに違いない。しかし、このような時だからこそ、との関係者の熱い思いが、相互信頼と大きな友情の花を咲かせたのである。田内千鶴子の尊い志は世代を超えて受け継がれていく。