2012-12-1
 定年後ゆとりが出来て近所に住む孫たちと遊ぶ時間が増えた。まだ小さいので専ら幼児向けのテレビ番組がコミュニケーション・ツールだ。「お尻かじり虫」ならぬテレビかじり虫。これが倣い性となってかならずか、我が家のテレビは四六時中オンである。そんなことでこれを機会に地デジ、BS、CSと一応全部みてやろうと思い立った。そもそもこれが間違いだったが膨大なチャネル数、忙しいことこの上ない。でもゆとりのお蔭でひと当たりチェック出来た。現役時代の仕事柄か作り手の側から見てしまうことも少なからず。悲しい性だが新たな発見もある。以下はそんな団塊テレビっ子の当世テレビ番組考である。
 見ればみるほど放送事情もずいぶんと変わったなぁと思う。NHKがえらく元気がよくて色んなことに挑戦している。元気がよすぎてCMがご法度の裏返しか自局の番組宣伝がやけに多い。目玉の新番組の登場俳優を自局の他番組にそれとなく登場させる。こういういい意味のあざとさは以前のNHKにはなかった。それに引き換え民放の工夫のなさは目を覆うばかり。子供のころから、歳が行くとコンサバになりNHK好みになるものと思っていたが、それを差し引いても断然光っている。どうもそんな理由ではないようだ。いつだかの不祥事を機に、かなりの大鉈が振るわれたのかもしれない。
 報道番組はNHK含め各局さして変わりがない。というより「報道の中立性」の名の下に、視聴者の真に知りたい部分にやんわりシールを掛けて、あくまで無個性を装っている印象がぬぐえない。局の独自の主張などかけらもない。ほんとにこれでいいのかな?「みなさまのNHK」はともかくも、各局もっと独自のカラーを打ち出して視聴者に局を選ばせるくらいの色を出せないものか?民放報道で独自色を打ち出しているのはフジ・サンケイグループくらいのものだろう。横並びが好きな日本の面目躍如である。「独自色が気に入らぬなら見てくれなくていい」くらいの気概をもって報道して貰いたいものだ。
 ドラマ・ドキュメンタリー番組。これはNHKが他を寄せ付けず、群を抜いて素晴らしい。なぜにこうまで違うのか。民放側の「言い訳」によれば「NHKは制作費が青天井でとかスポンサー不在で視聴率を気にしなくてよい」とか十年一日の答えが返ってくる。そんな時代は遠の昔に終わっているだろう。TVのこちらから見ていて思うのは、番組制作に携わるスタッフの息づかい聞こえる、つまり心意気の迫力が違うのだ。かつては、お固く融通の利かぬNHK、斬新で挑戦的な民放という時代もあった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 例えばNHKの地方局の充実ぶりと元気さである。ここ数年、ドラマで印象に残る作品には意外にも地方局制作の作品が少なくない。なかでも広島放送局制作の「火の魚」、同じく「帽子」が印象に残る。ドキュメンタリーでは高知局制作の「仁淀川」が圧巻だった。四万十川の評判の陰でひっそりと、時に激しく流れる仁淀川の四季を映像に収めた作品だった。これら地方局作品に共通して流れているのは郷土に対する熱い思い入れだ。しっかり土に根付いた制作姿勢が共感を呼ぶのだと思う。内部の事情には明るくないが、このような郷土の土にまみれて育った制作スタッフが、やがて本局で更なる飛躍を目指すことになるのだろう。そんな人材育成の妙というか好循環が元気さの源泉かもしれない。さらに加えるならばひとつの企画を追い続ける執念深さというか息の長さだろう。民放のドキュメンタリーにも同様の試みをしているものはいくつかあるが、これは制作費に絡む問題かもしれない。
 前述のように真面目で堅物、融通の利かなさそうなNHKが、視聴者のお叱りも非難も糧にして、したたかに既成概念や慣例を打破し次々と秀作を生み出すのは見ていて痛快である。それに引き替え民放の凋落ぶり。問題はひとえに視聴率至上主義にあると云われて久しいが本当にそうなのか?スポンサーの要求は本当に視聴率一本なのだろうか?筆者にはどうもそうは思えない。提供番組が愚劣で低俗でも、視聴率が良ければスポンサーはOKなどとは到底思えないのだ。この情報化時代、そんな番組を提供していること自体「お角が知れる」と視聴者に馬鹿にされるのはスポンサーも先刻承知のはずである。ではなぜ民放各局のプライム・タイムがお笑いタレント一辺倒になってしまうのだろうか?はたまた五輪中継にまでなぜタレントが必要なのだろうか。答えは簡単である。視聴者が望んでいるからである。つまりは視聴者のTVに求めるものが笑いとスポーツと芸能マターであることを民放各局が見抜いているからだ。何やらこの構図、政党政治と選挙の関係に酷似していないか?つまり視聴率を得票率に置き換えるだけでそっくり当てはまる。小難しいことは言わずイメージも悪くなく楽しい番組を視聴者が望んでいるとの局側のこの思い込みは本当か。半分は本当だろう。しかし残りの半分はそれほど視聴者を小馬鹿にしたものでもないと思う。視聴率に対して視聴質の重要性が叫ばれた時代もあった。今ではそれも聞かない。変革する気がないのだろう。ただ民放の制作者も視聴率一本でよいとは思っていないはずだ。現場で解決がつかぬなら経営マターとして採り上げるべきでないのか。
 このあたりを民放の経営者はどう思っているのだろうか。新聞報道などでよくBPO(放送倫理・番組向上機構)の勧告記事を目にする。しかし実際は倫理に抵触する人権擁護や低俗番組の監視機関にひとしい。「悪貨は良貨を駆逐する」というが問題番組の監視からよい番組が生まれるはずもない。悪貨を取り締まっても良貨を作ることにはならない。すべては番組制作者の志や心意気からしかよい番組は生まれないのだ。放送機関はよく民放と公共放送に区分けされるが、そもそも放送とはそれ自体が「国民に教養と娯楽を提供する」のが使命のはずだ。民放・NHKに分け隔てなく公共性は求められている。その意味で放送の自律的な向上に対して民放各社はあまりにも知恵が無さすぎはしないか。視聴率がそれほど経営に直結するのなら、民放各社で金を出し合って公共放送を展開するくらいの覚悟はないのだろうか。現に米国ではPBS(公共放送機構)が全米の放送局380局を傘下において公共放送を展開している。各局は非営利団体や大学で運営されているが、これらを傘下におくことで番組素材を提供したり各局の番組を全米に流したりが可能になっている。公共放送はNHK 1社にお任せという現状は余りにもお寒いのではないか。欧州各国も公共放送が国営1局という所はないはずだ。大概が複数局の中の1局が芸能・スポーツ専門局のはずである。日本のように民法各局が入り乱れて芸能・スポーツまみれなのは、あまり例がないのではないか。芸能・スポーツも悪くはないが、この状況では国民の低俗化に歯止めが利かない。芸能人の無知さ加減を売り物にクイズをやったりして笑い合っている。民放さん、芸が無さすぎはしませんか。

 そんな折、興味深い本に出会った。タイトルは「中の人などいない」@NHK広報のツイートはなぜユルい?NHK_PR 1号著(新潮社)
以下は本書よりの抜粋である。

 ~みんなの心の中にある「NHK」のイメージをよりよいものに変えること。それが広報という仕事です。それは宣伝や広告に比べると、とても地味で時間のかかる作業です。ツイッターという新しいツールを少しばかり使ったところで、何十年もかけて作られてきたイメージを変えることなど簡単にできるはずがありません。~
 中略
 ~「NHK」のイメージを変えたいのなら、「NHK」自身が持っている「視聴者」や「お客様」のイメージを、変えなければならないということです。自分を知ってもらうためには、まず相手を知らなきゃね。好きになって欲しいなら、こっちだって相手のことをもっともっと好きにならなきゃね。だからこそ―――。~
 中略
 ~NHKは公共放送という世界でも珍しい形態の組織です。みなさんの支えがなければ存在すら出来ない組織です。NHKの本当の「中の人」、それはみなさんなのです。~
~私はNHKが「みなさまのNHK」でなく「みなさまがNHK」でもあって欲しいと思っています。みなさんにNHKの「中の人」でいて欲しいと願っています~
 お堅いNHKにしてこの「だめキャラ」。PR1号さんのツイートがいま評判を呼んでいる。
恐るべしNHK!鬼に金棒でなく、金棒にゴムって感じ。こんな超絶コミュニケーションをやられたら当分はぶっちぎり、民放との差は開く一方である。
                                      (了)