ホセ・リサール(1861年-1896年) スペイン植民地下のフィリピンで、文学を通してフィリピンをフィリピンたらしめようと立ち上がった英雄。いまも建国の父とされる。フィリピン独立革命に連座され、志半ばにして処刑された。曽祖父に日本人の血が流れているとされ、来日時に心を寄せた恋人おせいさんの肖像画がリサール博物館に飾られているなど日本との関わりも小さくない。
 スペインに対して最初の反乱「カビテ暴動」が1872年に起きた。カビテ兵器廠で働く人々が待遇改善を求めてストライキを起こしたことが引き金となって僧侶を中心に自由主義者や知識人が抗議行動を起こしたが、騒動を指導した僧侶3人が死刑に処せられたのを含めて多くの犠牲者を出した。
 リサールはマニラ南方のラグナ州に生まれた。父は中国福建省系、母はスペイン系のフィリピン人である。マニラで哲学、医学を学んだ後、スペインに渡った。留学中、この事件をテーマに最初の小説『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触れるな)をスペイン語で書いた。植民地支配の実態を明らかにし、どうしたら悲惨な支配から脱出できるかをフィリピン人に問いかけた内容で、二番目の小説『エル・フィリブステリスモ』(反逆者)でもスペインの隠された圧政の歴史を次々と暴露した。
 リサールはスペインで留学生を糾合してフィリピンに改革を求める雑誌「ラ・ソリダリダート」(団結)を発行するなどして、その名は母国はもとよりヨーロッパでも一躍、若者に大きな影響を与える存在となった。中国で言えば魯迅と孫文を合わせたような存在だったといえるかもしれないが、平和主義者でフィリピンの独立を求めたことは一切なく、母国の法的平等を求めるなど当時としても穏健派に属していた。
 しかし1892年、リサールが帰国後に「フィリピン民族同盟」の結成に着手するやいなや反逆罪に問われて、ミンダナオのダビタン島に流罪となった。カビテ暴動後もフィリピンではスペインの過酷な土地支配に対する暴動が頻発し、カティブナンと称する秘密結社までが生まれていた。カティブナンは「崇高なる人民の子の団体」という意味で、リサールの民族主義から発展して武力によって独立を求めた。
 そのカティブナンが1896年、マニラの弾薬庫を襲撃し、武装蜂起した。最初は革命軍が優勢だったが、スペイン本国から3万人の援軍が到着すると形勢は逆転、革命は一気に鎮圧された。植民地政府はこの蜂起の指導者でもなかったリサールをみせしめのために銃殺刑に処した。
 当時、日本はまだ日清、日露の戦争もなく列強の圧力の下にあり、知識人たちはフィリピンのリサールの非業の死を大きな悲しみを持って受け止めた。『ノリ・メ・タンヘレ』が翻訳出版されたり、フィリピン独立運動を主題とした多くの作品が世に出たのは当然のことだった。(伴 武澄)