土佐山日記3 神祭
7月6日。土佐山に居着いて5日目。正確に言えば、昨日のことであるから4日目である。村にとって年に二度の大きなお祭りがあった。ここでは神祭(じんさい)という。アカデミーは最初から祭りをプログラムに入れてあった。9人の受講生は3カ所に分かれて神祭に参加した。
参加したのは高川地区の高川仁井田神社の神祭だった。僕らが住んでいるのも高川地区なのだが、高川の中心集落はそこから数百メートル上がったところにある。それこそ雲の上である。神社はその集落から急な石段を100メートルも上がった鬱蒼とした杉林の中にあった。本殿は江戸時代のもので、元来は茅葺きだったが、今は杉板で葺いてありなかなか立派である。
かつてはお神楽や相撲が催されるなど賑やかな祭りだったそうだが、いまでは大夫(たゆう=神職)さんが祝詞を上げて、宴会となる簡素なものである。この日、高知市の土佐神社から来た年配の小笠原という大夫さんは午前に菖蒲地区で祝詞を上げて、高川にやってきた。その後、平石地区で祝詞を上げて、桑尾地区でも祝詞を上げなくてはならない。どういうわけか明治このかた土佐山では同じ日に神祭を行うことになっているから大夫さんは忙しい。
祝詞が終わってから小笠原さんに「ここの祭神はどなたですか」と聞いた。「祭神不詳です」というから仰天した。「とにかく氏神さま」なのだ。祭神が分からない神社は初めてだ。さらに「8月14日には日月祭があってその時は、天照大神と月読大御神をお迎えする儀式があります」という。
四国山地には平家の落人伝説が各地にあり、土佐山にも伝わる話がある。今では棚田と斜面を利用した畑があるが、焼き畑という農法もそんなに昔の話ではなかった。
土佐山村史によれば、「古くから寺院があったとの記録は皆無で、寺に関係があったのではないかと想像される地名と、五部落に寺堂が残っているにすぎない」「一方、神社は御霊神社を中心に各部落ごとに氏神を祭り、夏と秋の神祭は村人たちの最大の行事となっている」とある。
つまり村にはお寺がない。神さましかいないのだという。仏教ゆかりの地名がないわけではないが、お寺が存在していた形跡が一切ない。仏さまのいない村落はまだありそうだ。本当かどうか知らないが、かつての仕事仲間の母親が奈良県十津川村の出身で「母親の話によれば十津川には寺がない」という話を思い出した。
仏教が日本に入ったのは飛鳥時代に遡る。蘇我氏と物部氏が仏教導入を巡って争い、蘇我氏が物部氏を滅ぼし、飛鳥寺を建立し丈六仏を鋳った。それ以来、日本の各地で寺院が建設され仏像が刻まれた。四国はその中でも弘法大師の影響を最も強く受けた地域である。日本文化の形成に仏教は欠かせない存在であった。仏教は土佐山まで入り込まなかったのか、はたまた何かの理由で排除されたのか、どちらかは分からないが、1500年近くにわたって仏教と無縁だった地域が日本にあることが新鮮だった。
小笠原さんに聞くと土佐山14地区にそれぞれ氏神さまはあるが、どこも「祭神不詳」なのだという。天照大神は年に一度村を訪れるお客さまにすぎない。ということは日本神道の系譜すらこの村に入っていなかったことを示すのではないか。そんな思いにさせられた。
やがて雲の上の高川仁井田神社で日本酒の酌み交わしが始まった。土佐では神事という。真向かいにいた高橋さんは、その隣の永野さん。二人高橋さんがいて、また永野さんがいた。すぐに分かったことは60戸ほどの住民のほとんどが高橋さんか永野さんであることだった。「満博さん」「干城さん」「善三さん「文明さん」。名字を呼びあう人は一人もいない。
隣にいたおばあさんに自己紹介をして、「どこからお嫁に来たのですか」と聞いたところ「隣の家」との答えが返ってきたのには仰天した。周りの人に解説を求めたら「高橋さんが隣の高橋さんに嫁入ったんだ」といった。神さまに名前がなくても当たり前のはなしかもしれない。雲の上の村で妙にガッテンした。