5月初め、夫婦で台南市を訪れ、八田與一の墓前祭に参加した。14年前、萬晩報に八田與一のことを書いたときから、この地を訪ねたいと思っていた。高知から関西空港、台湾桃園空港と飛び、新幹線で台南市にたどり着き、一泊して電車で約30分の「隆田」まで行きそこからタクシーで烏山頭ダムにたどりついた。直行しても丸一日かかる行程である。
 5月8日、台南市の烏山頭ダムのほとり、八田與一の銅像とお墓で開かれた墓前祭は約700人が参加、多くの花が贈られた。日本からは金沢市から山野之義市長ら120人を乗せたチャーター機が飛んだ。䔥万長副総統が「嘉南大圳の父と後世の人々に讃えられ、ダムと水路は80年後の今ももくもくと仕事をしている」と挨拶した。
 烏山頭ダムは70年前、台湾総督府に勤務していた八田與一の発案で完成させた灌漑ダムで、当時世界第三位、アジア最大の貯水量を誇った土木事業だった。アメリカが世界大恐慌からの経済刺激策として開始したTVA開発に先立つ巨大土木事業が日本の植民地で終わっていた。
 台南市北部の平原は雨量はあるものの、そのまま海に流れる河川ばかりで不毛の土地だった。この地の農民の生活向上のためにこのダムは計画された。八田與一の頭には植民地もなにもなかった。貧しい農民の生活向上が第一にあった。当時のシビル・エンジニアとしてはかなり先進的な考えを持っていた。この思想を涵養したのは高知県出身の土木技術者、広井勇だった。八田は東京帝大教授だった広井のもとで土木技術だけではなく、国境を越えた愛の思想も併せて学んだ。
 広井勇は札幌農学校の二期生で、新渡戸稲造、内村鑑三とともにキリスト教に受洗し、札幌農学校の三羽がらすといわれた俊才だった。アメリカ、ドイツに学び、小樽の築港工事ほか日本の土木の黎明期を担った技術者だった。
 八田與一は烏山頭ダム建設にあたり、当時の世界最新鋭の技術を惜しみなく導入した。工事は10年続いたため、住宅だけでなく、テニス場を併設するなど従業員、作業員の福利厚生にもつとめた。また工事中、不慮の事故や病で倒れた人々を慰霊する碑を建てたとき、日本人、台湾人の区別なく全員の名前を石碑に刻んだ。
 工事に感謝した村人はダム湖のほとりに八田與一の銅像をつくった。最初、八田は嫌がったが、「普段着の自分なら仕方ない」としぶしぶ了承した。銅像が奇妙なポーズをとっている。工事現場で片膝を立てて監督するくせがあったその姿を銅像にしたのだそうだ。
 太平洋戦争が始まり、八田與一は軍の命令でフィリピンでも同じような灌漑事業を命じられたが、フィリピン渡航中、米軍によってその輸送船は沈められた。八田の死を惜しんだ村人は銅像に後ろに墓を建て、命日の5月8日に慰霊祭を始めた。その慰霊祭は1年も欠かさず続けられている。
 終戦後、台湾に蒋介石軍が進駐し、日本が支配した形跡を片端から排除した。村民は八田與一の銅像にも累が及ぶことを畏れて、村はずれの納屋にその銅像を隠してしまった。平和が戻ってから村民は何度か銅像を元に戻すことを政府に要請したが、その度に「まかりならぬ」という返事が返ってきた。1980年代に入って要請した時には、なしのつぶてだった。村民は「これは消極的に戻していいことだ」と判断し、銅像は納屋からダム湖の見える高台に戻された。
 ちなみに八田與一とともに埋葬されている妻、外代樹は、終戦直後、夫のつくったダムに身を投げた。この物語も夫婦愛の絆の模範として語り継がれている。
 李登輝元総統は、八田與一の物語を小学校の教科書に載せるよう政府を動かし、一昨年は「パッテンライ」という名のアニメが制作された。昨年は、ダム近くに八田與一旧宅が復元され、観光地として整備され、今年はこの日に併せて郵政部から「八田與一記念切手」が発売された。
 山野市長はテレビのインタビューで「70年間、八田與一のために墓前祭を続けてくれている台湾の人々にお礼を言いたい。この誇らしい気持ちを金沢の子どもたちに伝えたい」と語っていた。
 20年前、八田與一の話を『嘉南大圳の父』に著した古川勝三氏は、1982年にこの地を訪ねた時、50人ほどの村民が墓前祭を続けていることを驚きをもって書いている。今年は700人だった。台湾南部に住む元日本人も大勢墓前に花を手向けていた。嬉しそうに「元日本人」であることを語る人々とも多く出合い、なんとも複雑な気持ちにさせられた。
 今年の墓前祭は第70回目だった。われわれは国境を越えた大きな愛の輪がますます大きくなっていっていることに感謝と誇りを感じた。