昨日4月28日は日本の独立記念日なのだそうだ。太平洋戦争に負けて施政権を失ったが、60年前の今日、サンフランシスコ講和条約が発効して連合国による支配が終わった。好きなメルマガの一つ「ボストン読本」の井筒周さんが書いている。
 新聞やテレビも、広島・長崎の原爆記念日や終戦記念日のことは「戦争体験を風化させるな」といって、記事やニュース特集でさんざん取り上げるが、これが、こと日本国の占領や独立となると、「占領体験を風化させるな」とか「独立体験を風化させるな」というのは聞いたことがない。
 本当にそうだ。筒井さんがいうように、ゴールデンウイークは日本のあり方を静かに考える時間としたい。
 今日の日経新聞では山折哲雄さんが連載で「ピープル」の日本語訳について書いている。リンカーン大統領の「人民の、人民のための、人民による政治」というゲッティンスバーグ演説の日本語や買うが「人民」と訳されたことに違和感があるというのだ。なぜ「国民」や「市民」ではいけないのかと疑問を呈している。
 「プープル」が日本語になる際、一般的に「国民」「市民」「人民」の三つの使い分けがある、山折さんはその使い分けがおもしろくないようだが、そもそも「人」もピープルなのだからややこしくなる。英語では一つしか表現がないものが日本語ではかくも多元化するのはなぜなのだろうか。
 これについては筆者も似たような問題意識を持っていた。日本国憲法の英語訳では「国民」は「ピープル」だし、「何人」は「エブリー・パーソン」。ここにもう一つ使い分けがある。
 フランス革命時に始まった「シチズン=シトワイヤン」は特別な意味がある。革命の同志を呼ぶ際の掛け声である。これがロシア革命、中国革命となると「同志」と呼ばれることになる。つまり「シチズン」や「同志」以外は階級敵であることを示していたのである。だから「市民」はあまり乱発しない方がいい。
 一方「国民」は日本国有の言い回しであろうと思っている。大日本国憲法では「臣民」とされたものが、なぜ「国民」と呼び換えられたのだろうか。ロシア革命などによって日本語の「人民」が共産主義の臭いを漂わせるようになり、戦後、「人民」という表現を嫌って「国民」としたはずだ。それだけのことである。
 いまとなっては「国民」は外国人に対比する表現にさえなっている。憲法で「国民の権利」と「難人の権利」が微妙に書き分けてあるのはどんな意味を持つのか考えざるを得ない。せっかく「国民」という新たな「概念」を憲法に表記したのに、第十条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とし、別途、国籍法を設けている。最初から憲法に「国民」の概念を書き込めば余計な誤解を生まずにすんだはずである。
 リンカーン大統領の演説が訳されたのは明治時代であり、その時、「人民」はもっとニュートラルは表現として受け入れられていたはずである。でなければ「人民の・・・・」という日本語訳は誕生しなかったはずだ。