日経新聞3月20日の文化欄。「モンゴル力士 開花の歩み」と題して大島武雄親方が「スカウトから関取誕生まで、泣き笑いの師匠時代」を書いているのが面白い。八百長問題や暴力問題を抱える大相撲ではあるが、大相撲こそはもっとも国際化した日本社会だと考えてきた。
 現在、外国勢なくして大相撲はない。横綱は何年もモンゴル勢が支えてきたし、日本人が大関になることすらがニュースになる時代である。にもかかわらず大相撲の世界は純粋日本である。プロ野球やJ リーグでも多くの外国人選手が活躍するが試合後のヒーローインタビューではほとんどの選手が母国語で語る。しかし大相撲で外国語をしゃべる力士は皆無である。日本人ですら忘れてしまったような表現をすることすらあるから驚きである。
 柏手から塩撒きなど相撲の所作そのものは神事である。グルジアやブルガリアなどキリスト教世界からやってきた力士にとって日本の宗教的所作はどう映るのか聞いてみたい気もする。津支局にいた時分、伊勢神宮では毎年4月、地方場所が開催され、場所に先立って、横綱の土俵入りが伊勢神宮に奉納される。そのころの横綱は朝青龍だった。毎年毎年、朝青龍が伊勢市にやってきて土俵入りをしていた光景は筆者にとって少々違和感があった。
 伊勢神宮は日本の最も日本らしい場所ともいえる。今年は白鳳が土俵入りをするはずだが、将来、把瑠都だとか琴欧洲ら西洋勢が土俵入りする可能性もある。キリスト教圏やイスラム圏出身の力士が伊勢神宮で土俵入りを奉納する姿こそが究極の日本の国際化なのだと思う。
 もちろん日本人が英語や中国語を駆使することも国際化であるが、外国人が日本の言葉や文化を解して日本化することこそが真の意味の国際化であると考える。そのためには異なるものを受け入れる度量が不可欠である。
 大島親方の話には、日本になじまないモンゴル青年たちを母親代わりになって涙ながらに説得する場面が登場する。
 おかみさんが、稽古場の桟敷で、相撲用語の解説や挨拶の仕方や歌を毎日夕方、1時間みっちり教え込んだ。旭天鵬は「言葉をどんどん覚えたら楽しくなって相撲も少しずつよくなってきた」と言っている。それまで3人の会話だったが、周りとの交流で自分たちの世界が広がっていったようだ。
 旭鷲山がモンゴルに凱旋し、パトカーの先導で空港からパレードする催しがあった。大統領が出迎える光景を見て自分のやってきたことは間違っていなかったのだとじーんとくるものがあった。