世界連邦を日本最初に提示した小野梓の「救民論」
これは天下の公論にして、一人の私言にあらざりるなり。その義たるや天地にわたり、古今をきわむ。微にして顕なりというべし。しかるに古聖賢の言たる。ここに及べるものなし。すなわちこれを知らざるなり。ただ世運未だひらけず、時機至らざるなり。
今や人文まさに開け、舟車その妙をきわむ。加うるに電気は信を瞬息に通じ、天下至るべからざるの地なく、通ずべからざるの信なし。
これに以て之をみれば、天下すでに小なりというと雖も可なり。かつさきに万国公法あり。各国これに依って交際す。隠然として一致の形をなす。しかもその実未だあらざるのみ。故にいま救民の術を論ずるに、必ず六合一致を以て首とすべし。みる者諒とせよ。かならず往時に徴して論ずるなくんば可なり。ここにおいて序とす。
天の生民を愛育するや、宇内同一、各土彼此の別にあらざるなり。すでにこれに命ずるに相養い相生ずるの道を以てし、これに与うるに自主自由の権を以てす。
しかしこれに依って生命をたもち、福禄をうけしむ。ああ盛なるかな。天の徳や、これ古今これを仰いでやまざる所以なり。往古の人々相凌辱することなくたがいに保護して以て天徳を仰ぐ。
人類日にしげく、風俗月に移るにおよんで、はじめて強きは弱きをしのぎ、大は小を辱しむるの弊を生ず。生民これがためにほとんど生命を保ちあたわざるに至る。ここにおいて賢哲の士はじめて政府を建て、強きをこらし弱きをすくい、上下同一、相生じ相養うの道を全うし、自主自由の権を伸ばすを得たり。
ゆえに人々戸給し家足り。おのおのその所に安んず。かくの如くんば政府たるの肯かずというべし。惜しいかな後世姦雄の徒、政府を以ておのれの肆欲の具となし、生殺与奪その権を専らにして、公儀に出ださず。生命の窮困日一日より甚だし。ただ政府の暴威をおそれ左視右顧し、その忿怒を避くるを知るのみ。
たまたま良政府と称する者ありといえども、しかも一隅に画す。なお今だ凌辱弱小の弊あるを免れず。宇内の乱従って止むことなし。生民の窮困いつの時にか救われん。いま宇内の生民の計をなすに、一大合衆政府を建て、宇内負望の賢哲を推し、これをして宇内を総理せしむに如くはなし。
大議事院を置き、各土の秀才を挙げ、公法を確定し、宇内の事務を議して、そのまつりごとを善くする者これをすすめ、そのまつりごとを善くせざる者これをこらす。
大いに生民教育の道を起して、はじめて宇内の民をあげて相生じ相養うの道を全うし、自主自由の権をのばすを得しむというべきのみ。あに人間の一大楽事にあらざらんや。しかり而してこれを首唱し、これを成就するもの、各土の政府の任なり。願わくは各土の政府、天意を体し、己私を去り、ここに従事せよ。
いやしくもその民すでに安きを以て、ここに従事せざれば、すなわち天意に背きて生民彼此の別なきを知らざるなり。もし他日強暴の政府ありて外よりこれを凌辱せば、その民の安き、また保つべからざるなり。ああ真に豪傑の士ありて、起てば必ずこれを唱就し、以て斯民を禍乱の中に救うを知らん。宇内同一、天生民を愛育するの意を全うするを得ん。(本文は漢文体 1968年、世界連邦建設同盟発行の小冊子『世界連邦思想の系譜』田中正明「小野梓の世界連邦論」から転載)
救民論 明治己巳之夏、在上海作之。
序
救民論、是天下之公論、而非一人之私言也。為其義也、亘於天地、極於古今、可謂微而顕也。然而古聖賢之言、無及於此、則不知之也。唯世運未闢、時機未至也。今也人文方開、舟車之用極其妙、加之、電気・通信、於瞬息天下無不可至之地、而無不可通之信。以是視之、則雖謂天下已小而可也。且往有万国公法。各国依之以交際、隠然為一致之形、而其実未有耳。故今論救民之術、必以六合一致為首、観者諒焉。必勿徴往時而論可矣。於是乎序。
天之愛育生民、宇内同一、非有各土彼此之別也。既命之以相養相生之道、与之以自主自由之権、而使因之以保生命受福禄矣。呼嗟盛矣哉、天之徳也。是所以古今仰之不已矣。往古人々無相凌辱、互保護以仰天徳。迄人類日滋、風俗月移、而始生強凌弱大辱小之弊、至生民為之殆不能保生命焉。於是賢哲之士、始建政府、懲強済弱、而上下同一得全相生相養之道、伸自主自由之権。故人々戸給家足、各安其所矣。如此、可謂不背為政府也。惜哉、後世姦雄之徒、以政府為己肆欲之具、生殺与奪専其権、而不出公議、生民之窮困、日甚於一日、唯畏政府之暴威、而左視右顧、知避其忿怒耳。適雖有称良政府者、然画於一隅、猶未免有凌辱弱小之弊。宇内之乱、従而無止、生民之窮困何時救乎。今為宇内生民之計、莫如建一大合衆政府、推宇内負望之賢哲、使之総理宇内焉。置大議事院、挙各土之秀才、確定公法、議宇内之事務、而善其政者勧之、不善其政者懲之、大起生民教育之道、始可謂挙宇内之民、而使得全相生相養之道、伸自主自由之権而已。豈不人間之一大楽事乎。然而首唱之、成就之者、各土政府任也。願各土之政府体天意、去己私、従事於此焉。苟以其民既安、而不従事於此、則背天意、而不知生民無彼此之別也。若他日有強暴政府、自外凌辱之、則其民之安、亦不可保也。嗚呼有真豪傑之士、起必知唱就之、以救斯民於禍乱之中、宇内同一得全天愛育生民之意矣。此救民論之所以因而起也。
(「東洋詩文」『小野梓全集』下巻 139―140頁)