小野梓を知っているだろうか。だれもが早稲田大学の開祖は大隈重信だと思っているが、大隈が夢見た育英事業を実際に実現したのは土佐出身の小野梓という青年だった。
 小野は土佐の西のはずれの宿毛という町の出身。どういうわけか宿毛から多くの民権論者が輩出している。吉田茂の実父である自由党の竹内綱、林有造、岩村通俊、大江卓と続くが、先陣を切ったのは小野梓といっていい。
 ペリーが日本にやってきた嘉永5年(1852)、に生まれ、明治3年7月、18歳の夏、ひとりで上海にわたり、西洋の東洋侵略のありさまをつぶさに見て目を開かされる。上海の宿で世界連邦論ともいえる『救民論』を漢文で書き上げていた。
 翌年、アメリカに遊学し、さらに明治5年には大蔵省派遣の留学生としてロンドンに逗留する。ロンドンでは財政 学を学ぶが、小野の関心はイギリスの政治にあった。英国国会に通い、グラッドストーンとディズレリーの議論を目の当たりにして、非常な感動を覚えたとい う。帰国してさらに著したのが『国憲論網』。日本での立憲政治の実現を訴えた。まさに民権運動の先駆け的存在が小野梓だったといっていい。
 明治9年には司法省入りし、民法課副長として民法制定の基礎づくりにあたる。参議だった大隈重信に見いだされたのはこの時だったようだ。その後、元老院書記、会計検査官を歴任し、北海道開拓使官有地払い下げ問題では大隈とともに黒田清隆らを糾弾する先鋒に立った。
 小野は若くして肺結核を病んでいたため、35歳にしてこの世を去ることになる。
 この事件の後、大隈らは明治政府からたもとをわかって下野した。大隈を党首として立憲改進党が誕生したのは明治15年のこと。小野は改進党の最高幹部の一人として活躍する。
 早稲田大学の前身である東京専門学校が生まれたのは改進党創設から半年後のこと。早稲田にあった大隈の所有地に建設された。小野は会計検査官時代から浅 草・橋場に住んでいたが、当時から小野の家は学生のたまり場となっていて、毎夜、天下国家を論じていた。いつのころか「鷗渡会」と呼ばれる集まりとなり、 この若者集団が改進党や東京専門学校設立をバックアップしたのだった。
 小野梓なかりせば、たぶん今の早稲田大学はなかった。
 小野は若いころから肺結核を病んでいて33歳で世を去る。1886年であるから帝国議会の開設を知らない。