大同石窟寺院の弥勒菩薩
ガンダーラ仏との出会いから約10年、1977年の3月、僕は中国大同石窟寺院(雲崗)を訪れた。当時の中国はまだ文化大革命の余韻がそこかしこに漂っていた。大同市は北京から汽車で約10時間の旅だった。ウランバートル行きの国際列車に夜乗ると、明け方に大同駅に着いた。
ホテルで少しばかり仮眠して、郊外の大同石窟寺院を訪ねた。大きな石仏群の片隅に、京都、広隆寺の弥勒菩薩の薫りをとどめた小さな菩薩像をみつけた。アルカイック・スマイルである。その驚きややがてユーラシア大陸を鳥瞰する大きな想像力として脳裏を駆け巡った。
大同石窟寺院が建設されたのは北魏の時代。鮮卑という遊牧民族、匈奴の流れをくんだ拓跋氏が華北に建国した国家である。シルクロードの流れをついだ仏教美術がそんな塞外民族により花開いたことに驚きがなかったわけではない。仏教はもちろん、中原でも盛んになったが、美の系統は塞外民族につがれていったと想像した。その仏教美術を継承したのが、日本人だったと直感した。
中国の塞外民族で中原を支配した勢力もあったが、多くの時代支配、抑圧の対象だった。仏教はもともとインドの被差別民の中に広がった教えである。いつしか祈りの対象となったのが仏像である。厳しい修行の末に悟りを開くのも宗教であるが、弱きもの小さきものであっても救われることを伝えたことにより大きな広がりを得た。拓跋氏の人々が大同石窟を訪れて、どんな思いでこの小さな菩薩像に対座したことを想像してほしい。
しばらくして、日経新聞に井上靖が僕に直観力をもたらしたその大同の小さな弥勒仏について随想を書いていた。内容は忘れたが、大作家と同じ直観力を共有していたことがすこぶる嬉しかった。
井上靖は『敦煌』や『楼蘭』などシルクロードを題材とした多くの作品を残した。日本の仏教美術に関しても珠玉の小編を書き続けた。消え行く小さきものへのこよなき慈しみが作品の底流を流れる。
仏教の興隆の背景には強い国家の意思があるのだが、寺院を飾る一つひとつの仏像は多くの名もなき仏師が丹念に鋳造したり彫刻したものであることを忘れてはならない。