奈良盆地を旅するようになったのは大学浪人時代である。国立高校の日本史の教師は渡辺忠胤という人だった。黒板に白墨で書く文字が達筆だった。習字の授業のようだった。歴史の現場をあたかも旅するように解説してくれた。
 浪人時代のゴールデンウイークに初めて一人で明日香を歩いた。日本史の教科書に載っていた白鳳仏がみたかった。飛鳥寺を回り、興福寺で山田寺の仏頭に手を合わせた。
 山田寺の仏頭はもともと明日香の山田寺の本尊。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺だった。大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足側についたが、後に謀反の疑いをかけられ自害する。やがて疑いは晴れ、 天武14年(685)に天皇は亡き蘇我倉山田石川麻呂のために山田寺を建立した。
 時代は移り、山田寺の本尊は鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災。そ の後、行方が分からなくなっていたが、昭和12年に現在の東金堂本尊の台座の中から頭部だけが発見された。応永22年(1415)に再興された現東金堂本 尊台座の中に納められた記録が残っていたため、白鳳仏としての造立年代も明らかにされた。
 当時、アルカイックスマイルという表現を知った。その仏像は右からみると厳粛な顔つきだが、左からみると慈悲深い母のような笑みを表現していた。左右は逆だったかもしれない。飛鳥寺の大仏もまた同じ表現方式をとっていた。ともにその流れをギリシャ彫刻に求められるというので興味をもった。
 タキシーラにあったガンダーラの仏像にそんな微笑があったかどうかは覚えていないが、飛鳥時代、白鳳時代につくられた仏像にギリシャの影響が残っているというだけで、日本の仏像にのめりこむのに十分だった。
 日本の仏教がはるけくも長い旅路の末にこの島に伝わったのだという感慨があった。そういう意味で山田寺の仏頭は私の中で日本仏教の原点に位置する存在となった。
 飛鳥時代と白鳳時代は日本仏教の黎明期にあたる。大陸から日本列島にやってきた仏師たちが新天地に新しい美を創造しようと試みた。当時の日本には、異なるものを受け入れる素地が大いになったのだろう。そんな仏像をみなが珍重した。美しいものだと思ったに違いない。
 宗教は教えである。民族のなりわいからそれぞれの生き方を戒めたものでもある。だから宗教を守るには厳しさがあったはずだ。しかし、日本の初期の仏像にはその厳しさがない。日本の仏教の受容は「ほほえみ」から始まったと考えれば興味深い。「うつくしさ」から始まったとすれば、なお面白い。