バーミヤンには真夜中に着いた。渓谷は星ばかりが輝いていた。首都カブールを出発したのは早朝だったから十数時間、沙漠の山々を走り続けたことになる。案内人兼運転手は岡の上にテントを張りながら言った。
「明日早く起きてください。朝日が山から上がって仏像を照らし始めますから」
 簡単な夕食を取ってわれわれはテントの中の寝袋にくるまった。
 翌朝、朝日が対岸の岩山の巨大な仏像を照らし出した。荘厳な瞬間だった。千数百年前、玄奘三蔵がはるけくもこの地にやってきて数千の僧侶が修行していたことをそのたびの日記に記している。仏像の顔はその後にやってきたイスラム教徒のために削がれているものの、沙漠の真ん中にスッくと立つ姿には圧倒させられた。
 日本で感じる仏教とは異次元の祈りの空間がそこにはあった。いまはタリバンによってバーミヤンの仏像は破壊せられたが、世界の仏教史を語る上で欠かすことのできない存在であることは間違いない。
 ゴーダマは、自らの像を崇拝してはならないと弟子たちに戒めた。この点、ユダヤ教、キリスト教と何ら変わらない。しかし、不思議なことに、仏像は遠くインドまで遠征したギリシャ人たちによって誕生した。ギリシャの彫刻とインドに生まれた仏陀の教えが融合した。その尊顔の変遷はガンダーラからアフガニスタンを経由し、タクラマカン沙漠に到るまではアーリア系の血を残した。
 インドを東洋と分類することは難しいが、少なくとも西洋ではない。仏教が西洋化し、さらに東進することで東洋の美を増していった変遷は興味深いものである。中国の仏教は、西方の異なる教えとして伝えられたことは間違いない。その後の景教(ネストリウス派キリスト教)も回教も同様である。
 初め粘土でこねられた仏像は巨大化した結果、シルクロードに多くの石窟寺院を残し、中国でも竜門や大同では仏像は石に彫られるようになり、金属の仏像も鋳造されるようになった。そして、さらに日本に伝わると、今度は木造の美しい仏像が数多く誕生することとなった。
 忘れてならないのは、いま沙漠であるバーミヤンの山々もシルクロードも仏教がさかんだったころには森林が生い茂っていただろうということである。地球の気象が大きく変わり、乾燥化することによって、人々の営みの仕方も変化を余儀なくされ、信じる教えもまた変遷していったと考えれば、古代史の読み方も一層興味を増すものとなろう。