古代にあった波多国
週末、宿毛を訪ねた。歴史館でびっくりしたのは、古代に土佐国とは別に「波多国」があったと解説されていたことだった。「都佐国にさきがけ、波多国造に任命された大韓襲命(おおからそのみこと)は、県下で唯一の前方後円墳である平田曽我山古墳に埋葬されたと考えられる。平田には前期古墳が三基もあり、すべて波多国造の一族の墓と思われ、この付近が波多国の政治経済の中心だったことを物語っています」
高知県西部は幡多郡というが、古代の幡多の文化は瀬戸内海から伝えられたようである。現在、高知と呼ばれる県都は江戸時代に山内一豊が築城して城下とした場所で「河内」がなまって「高知」となった。長宗我部は岡豊を築きその後に桂浜のある浦戸に移った。最初から「高知」があったのではない。
紀貫之が土佐の国司に来たころは南国市に国府があったから政治の中心は香長平野にあったのだろうが、もう一つの中心が一条家が支配した幡多郡にあったことは歴史的事実である。
歴史が面白いのは、地元にいくと教科書には書かれていない展開があるということである。幡多郡のキーワードは「波多国」と国造の「大韓襲命」に加えて、「高知坐神社」である。幡多郡に「高知」があった。「たかち」と読む。奈良の「高市」と通じるのだそうだ。
さらに宿毛市のホームページに続きを読みたい。
宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。……国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。