クリントン米国務長官がミャンマーを訪問し、アメリカとミャンマーの関係修復に乗り出している。民主主義が行われていないと軍事政権を非難し続けたアメリカが豹変した。ミャンマーが国際社会に復帰できることは喜ばしいことではあるが、あまりにもご都合主義でなないか。長年、経済制裁を行ってきた国に対して態度を変えたのは、中国に対する牽制である。
 実はミャンマーはアジアでマレーシアに並ぶほど親日的な国である。国の成り立ちに、戦前に多くの日本人が関わってきたからにほかならない。ミャンマーの歴史を葉たる際に、イギリスがどのようにこの国を統治してきたかということを知らなくてはならない。
 そのイギリスを追い出すことに多くの日本人が関わっていたことはほとんど記憶のかなたに去っている。竹山道雄が執筆した少年向けの小説『ビルマの竪琴』すら、現在の日本人は忘れている。不思議なことに、豊かになった日本で起きているのが、アジアへの無関心なのである。
 田中正明『雷帝 東方より来る』(自由国民社)、バーモウ『ビルマの夜明け』(太陽出版社)、泉谷達郎『ビルマ独立秘史 南謀略機関』(徳間書房)を相次いで読んで、ビルマ(ミャンマー)建国の父であり、スーチーさんの父親であるアウンサン将軍に思いをはせた。
 アウンサン(1915年-1947年)はオンサンとも呼ばれたビルマ(現ミャンマー)建国の父である。学生時代から反英闘争に入り、第二次大戦では日本軍と協力してビルマ独立軍を編成、軍政の中、バーモウ首相をいただいて独立するが、日本軍が劣勢に転じると英国側に寝返る。戦後、イギリスとの独立交渉のリーダーとなる。1948年の独立を見ることなく、反対派に暗殺された。
 アウンサンが独立運動の闘士として注目されたのはラングーン大学の学生時代。運動の機関誌の編集長として活躍。過激な記事を掲載したことで中途退学を余儀なくされるが、その後全ビルマ学生連盟のリーダーにのし上がった。
当時、イギリスはビルマに自治制度を取り入れ、独立闘争の矛先を緩和しようとしたが、唯一屈しなかったのが、学生を中心とするタキン党だった。タキンとは主人という意味でビルマの統治はビルマ人によらなければならないという主張を掲げた。アウンサンもまたタキン党の有力メンバーだった。
第二次大戦が始まると、イギリスはビルマ統治を強化しようと、自治政府の閣僚も含めて危険人物を一網打尽にした。そんな中、アウンサンは中国アモイに脱出していた。
 アウンサンの反英闘争は日本軍の目にもとまり、逃亡先に逃亡したラミヤンとももに参謀本部の鈴木敬司大佐によってアモイから救出され、33人の仲間とともに海南島で「死の軍事特訓」を受ける。
 1941年、日本軍の南方進出が進む中、ビルマ独立義勇軍を編成し、陸軍の南機関のもとで、ビルマ進攻作戦の先鋒役を果たす。翌年3月、ラングーンが陥落すると義勇軍は国防軍と名を変え、43年8月、バーモウを首班とするビルマ独立に際しては28歳で国防大臣に就任する。
日本とビルマの蜜月時代は長くは続かなかった。戦争中の独立は軍政下における自治にも満たなかったため、ビルマ側の不満は到るところで噴出した。44年、インパール作戦が失敗に終わると、完全に日本軍から離れ、ビルマ共産党などと反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織して日本軍に反旗を翻した。
 戦後は、このAFPFLがイギリスとの独立交渉にあたったため、アウンサンの国際的知名度は一気に高まった。47年1月、一年以内に独立を約束するアウンサン・アトリー協定が結ばれたが、国論の統一は難しく、48年1月、政敵のウー・ソー派に暗殺された。
 独立を見る前に暗殺されたという点ではインドのガンジーと同様であり、日本軍に協力した面では同じインドのチャンドラ・ボースと似ている。海南島時代、アウンサンは仲間とともに日本名をもらい、緬甸(ビルマ)から面田紋次を名乗っていた。南機関の鈴木機関長もまた、ビルマ名、ボ・モージョを名乗った。33人の志士からはネ・ウィンら戦後に首相になる人物も含まれていた。