中野総合病院の前の賀川豊彦胸像がなくなっていると聞いたのは2週間ほど前のこと。一瞬、耳を疑った。胸像は病院創立35年を記念して昭和42年に建立されたもので、その後の手入れもなかったのか、2009年に訪ねた時にはすでに眼鏡がなくなっていた。
 中野総合病院は日本初の医療組合による病院として発足した。健康保険もない時代に労働者たちの医療事情は現在とは比べることのできないほど厳しいものがあった。病気になっても医者にかかる金がない。その病気を放っておけば病状はますます悪化する。病状が悪化すれば、収入の道が閉ざされる。その悪循環が巷に横行していた。
 そんな時期に労働者の共同出資による病院をつくろうとしたのが賀川豊彦だった。賀川の構想は日本医師会の猛反対で設立が危ぶまれたが、藤沼庄平東京府知事の英断でかろうじて認可された。この医療組合の発想は燎原の火の如く全国に広がった。現在、全国に約200カ所あるJA厚生連や生協経営の多くの病院は1932年の中野総合病院の設立を契機に誕生したといって過言でない。
 そうした意味において、中野総合病院は日本の医療の原点ともいえる存在なのである。その原点の病院がなぜ、創業の父である賀川豊彦の胸像を撤去しなければならないのか。また、それに対して、どうして疑問の声が起きないのか。高知にいながら苛立たしい思いが募る。
 聞くところによると、中野総合病院は賀川なき後、娘の冨美子氏が院長として跡を継いだが、賀川をないがしろにする勢力が病院内を支配し、革命に反対した賀川精神を骨抜きにしたという。今はだれが経営しているのかも知りたくはない。
 少なくとも、賀川の胸像は中野区の公園に存在していた。病院側が薬局をつくるために、土地を買収し、産廃業者にその作業を委ねたという。知人がその産廃業者にたずねると、胸像はすでに溶融されてしまったそうだ。
 買収した土地にあったものを所有者がどのように処理しようと勝手である。しかし、中野総合病院の前の胸像はすでに歴史的意味を持つ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に、貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。ある意味で、文化財的存在であるともいえなくもない。
 どんな理由があろうとも、そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。そもそも平時に銅像が撤去された話など聞いたことがない。自らが維持できなくなったら、まず関係する組織に相談すべきである。世田谷の賀川豊彦記念松沢資料館、神戸の賀川記念館ともに銅像はないから喜んで受け入れたはずである。
 いまからでも遅くない。病院は賀川豊彦の胸像を撤去したことに対しに社会に謝罪し、猛省して胸像の再鋳造を求めたい。