土佐の山間で繰り広げられた民権大絵巻
10月21日、雨天の中を高知から山を越えて旧土佐山村西川を訪ねた。自由民権時代の新聞記者、和田三郎の旧宅がある。市内からたった15キロしかないが まさに山村である。そこに自由民権結社「山嶽社」があった。土佐山村は多くの民権家を輩出したことで知られる。もともとは和田波治、千秋父子が始めた寺子 屋だった。門下生のの高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党が成立したころ、民権結社「山嶽社」に発展し。明治22年2月26 日に「山嶽倶楽部」と改めた。
『土佐自由民権運動日録』や『土佐山村史』などによると、土佐山郷西川の桧山で「巻狩大懇親会」という催しが開かれ、県下の壮士約2000人がこの山 村に集まったというのだから驚きだ。7日後、今度は香美郡赤岡の海浜で、「旧海南自由党魚漁大懇親会」も開かれ、中江兆民らも参加している。海、山で自由 民権の大絵巻を繰り広げたのであるから痛快だ。
高知の「立志社」は、2隊に分かれて山越えで野宿しながら会場へ到着したという。高張提灯や旗を掲げ、銃や槍、薙刀(なぎなた)、野太刀などを携え、ま た毛布や食料などを背負った集団が山を越える姿は異様に違いない。現在でも15キロの山道を2000人のデモ隊が越えるという光景は想像できない。
なるほど植木枝盛が「自由は土佐の山間より発する」と言った意味が少し分かり始めた。 和田三郎(1872-1926)になぜ興味を持ったかというと、『萱野長知研究』に萱野の朋友として度々登場するからである。祖父や父の薫陶を受けたもの の、自由民権運動には遅れて出てきた人物で、アジア大陸で自由民権の流れをつくり、日本に逆輸入しようと考えた点では多くのアジア主義者と共通項を持つ。
明治治5年6月22日生まれ。明治学院を卒業、,郷里高知県の土陽新聞の記者となる。明治39年、中国同盟会の発足を支援するため宮崎滔天(とうて ん)、平山周らと「革命評論」を創刊、大正4年、中華民国通信社を興して新聞「支那と日本」、「民報」を相次いで発刊、孫文らの中国革命運動を支援した。 宇田友猪(ともい)とともに板垣退助監修の「自由党史」を編修、43年刊行。大正15年11月1日死去。55歳。