昨夜5日、ホテルオークラで「海部俊樹君の叙勲を祝う会」が開かれ、勘三郎が舞い、中曽根康弘元首相も駆けつけるなど大盛会だった。筆者が理事をしている世界連邦運動協会の会長をしていただいている海部さんには7月にインタビューをし、9月30日に内々のお祝い会でもお会いしているので顔見知りになってしまった。
 実は海部さんが首相だったころ、日米構造協議があり、ブッシュ米大統領との直接談判のため、ロサンゼルス郊外まで同行取材をしたことがある。政府専用機で記念撮影をした際に一言話をしたことがあるが、当時の首相が一介の経済記者の存在を覚えているはずがない。
 面白いもので7月のインタビューの際に、海部さんが最も力を入れたことを聞いたら「青年海外協力隊の設立に関わったことだ」と話した。日本が世界平和のために尽せることを自民党青年局で話していたら、ケネディーが始めた平和部隊みたいなものを日本でもつくろうということになり、協力を求めるために全国を行脚した話が出た。
 「実は僕の父親が二代目の協力隊事務局長でして・・」というと間髪いれず「伴正一か、覚えているよ、あんたはその息子か。その後、選挙にでたな!、民社党なんてところからでなければよかったのに・・」と懐かしそうに話してくれた。
 海部さんは昨夜の祝いの挨拶でも「日本には世界に誇る青年海外協力隊がある。自民党がイロハのイから作った政策だから自民党はもっと自信を持っていい」などと会に参加した谷垣自民党総裁を励ましていた。
 返す刀で菅直人前首相が「最小不幸社会」といったことに対して「僕はすべての国民の幸せを考えるのが政治だと思う。どうしたら幸せにできるか力の限り協力させてもらいたい」と挨拶を締めくくった。
 20年前、生意気にも「頼りない首相だ」「かっこばかりつけて」などと小ばかにしていたことを今頃少々反省している。菅さんにしても3.11の原発対応はどうしようもなかったが、たぶんあれほどの大惨事では誰が首相であっても似たり寄ったりの対応しかてきなかっただろうと考えている。大臣ならともかく一国の宰相ともなれば、安全保障から福祉、財政まであらゆる問題に直面し、それなりにさばいていかなければならない。それは一国民では分からない重圧なのだと思う。
 だから首相のやることに批判をするのを止めたということではない。海部さんが青年海外協力隊をつくったというだけで日本の歴史に残る首相の一人だったといえないかと思い出しているのである。(伴 武澄)